幕間__友は花の香りを連れて
くすくす、子どもが笑う声が聞こえる。
薄く目を開いても誰の影も見えないままだ。ここには医者以外誰も入ってこれないはずなのに、忍び込んできてしまったのだろうか。大人に怒られる前に早く帰るように言ってやらなきゃ。
『ねぇ、目を開けられないの?起きているのは分かっているのだわ!』
声は耳元で囁かれる。街の住人ではないのか、それとも知らない間に来た新顔か、嬉しそうにはしゃぐ子どもの声は聞いたことのないものだった。
「……すまない……少し、疲れてんだ……」
『あら、あの水晶の塔と混ざった魂を持っているのに?』
思わずバチリと目を開いて、声の主を捉える。子どもだと思っていたその人は、いや、その存在は小さな体に美しい光をまとう羽を背負った生き物だった。ニームの軍学者が使役していたフェアリーに似たその存在は、オレの枕元で燃えるような夕陽色の髪を揺らして楽しげに笑っていた。
『ふふ、やっと目を開いたのね』
「あんたは……?」
『あら、お行儀がなってないわ! レディに尋ねる前に自分が名乗るものじゃないかしら?』
「……すまねぇ、今のオレじゃ名乗れない」
『なら、私だって教えないのだわ!』
「……悪かったよ……こっそり教えるから、こっち来てくれねぇかな?」
『ええ、秘密のお話は大好きよ』
幸い塔との同化が進んでから気配に敏感になったお陰で近くに人がいないことは分かっていたから、そしてほんの少し弱っていたから、この小さな見舞客に秘密を漏らそうと思ったのだろう。口元に寄ってくれたフェアリーに未だ無尽光の元に晒したことのない古い名を囁くと、ふるると光る羽を震わせる。
『そう、それがあなたの本当の名前なのね。素敵な響きだわ』
「約束、あんたのこと教えてくれよ」
『ええ、ええ! 私はフェオ=ウル、〈狂い咲き〉と呼ぶ者もいるわ』
「フェオ=ウル……?」
『ふふ、素敵な名前でしょう? ねえ……私、あなたとお友達になりにきたのよ』
「友達? なんたって、オレなんかと?」
フェオ=ウルと名乗るフェアリーに似た彼女はにんまりと悪戯っぽい笑みを見せながら、まだダメージが残っていてまともに起こせない体の上を飛んで、丁度クリスタルになっているオレの胸を細い指先でつつく。
『だって、あなたが一番キラキラ〈輝く命〉なんだもの。私たちピクシーは楽しいことや美しいものがだぁい好きなのよ』
新しいおもちゃを見つけた子どものような無邪気さを感じさせる彼女の物言いに一つ得心がいく。このフェオというピクシー、恐らく妖精の仲間はオレの魂が見えているのだ。第八霊災を超えた体には、この世界の誰よりも濃い魂が備わっている。きっと、彼女が言いたいのはそれだけではないのだろうけれど。
黙ったままなのを良いことに、彼女はなおも言葉を重ねていく。水晶に覆われた腕に腰掛けて足をぶらつかせる彼女はシルフ族よりも人の子どもに近い仕草の中に、どこか老練した色も覗いている不思議な雰囲気があった。
『ねえ、教えてくれない? あの大きな塔と一緒になってまで、名前を閉じ込めてまで、あなたは何をしたいのかしら』
「……オレは、救わなきゃいけない人が、いるんだ……そのためにオレはここにいるんだ」
『まあ、ヒトなのになんて一途なの! 私たちよりも移り気で、残酷なヒトらしくない……素敵ね』
顔の近くに飛んできた彼女はうっとりと呟き、細い指が愛おしげにそうっと頬を撫でる。温度を感じないその指先が今はひどく落ち着く。徐々にうつらうつらと意識が遠のいていく気配を感じた。
『ふふ、やっぱり会いにきてよかったのだわ。ねえ、水晶になってしまった〈私の友〉? 私はあなたのこと、もっと知りたいわ』
「フェオ=ウル、あんたは……」
頬から滑らせられた指に唇を縫い留められた。やわらかな強制はもうオレの言葉を必要としないことを報せてくれる。
『庭いじりの途中、困った時や遊びたい時は私を呼んでね。じゃあ、またね!』
エーテライトに交感するように腕をひと撫でしてからフェオ=ウルはひらりと一回転して、やわらかな残光を散らせて来た時と同じように突然、姿を眩ませた。睫毛に降りた残光の粒子が弾けて、少しの間だけ虹をかけてくれたのは彼女なりの土産だったのかもしれない、とまた微睡みに落ちていく思考が揺らめく。