09__開幕
一層濃いエーテルの波紋が風を巻き起こし、星見の間を吹き荒らした。
耐えきれず目を瞑ってしまった自分を叱りつけて、耳だけでも感覚を研ぎ澄ませる。だが、これまでに喚び出した賢人たちの時とは違い、古代の叡智が作り上げた星海の床に誰かがふれる音もなければ、自分以外の生体エーテルの揺らぎすら一切感じない。
ようやく静まったエーテルを目蓋で感じ、そうっと目を開けるが、やはりそこには誰もいなかった。だが、確かに手繰り寄せた感覚がある。
すぐに大鏡を振り返って、右手でその表面にふれると波が引いて砂浜が顔を出すように、紫色の景色と人影が二つ浮かび上がる。
見間違えるはずがない、あの人だ。
どうやら出口の座標がずれただけで、本人は無事な様子だ。早速、現地の人間と打ち解けたように話しているそんな姿に笑みと安堵の息が漏れるがその呼気は熱く、同時に目頭にもその熱を移した。
あの人が生きている。物語の中でも、思い出の中でもない。今、オレたちは同じ空の下にいる。その事実はまだ人の肌を残しているところをあまねく総毛立たせた。
鏡面のあの人にそっとふれて、一挙手一投足を呆然と眺めていた時間は、一瞬にも数時間にも感じられた。これまでの歩みを思えばいずれにせよまばたきにも等しいが、だが。
こうしてはいられない、早く迎えに行かなければ。
きっとあの人のことだから知らない土地であってもすぐに順応出来るし、浅からぬ縁のあるクリスタルタワーを見ればこちらに向かってくるだろう。そうなれば、待っていても衛兵たちに星見の間へ連れてこられるのは分かりきっていた。
だが、今は一刻も早くあの人の声を聞きたい。
その想いに背中を押されるように、オレは踵を返して星見の間を飛び出し、クリスタルタワーの螺旋階段を駆け降りていた。
会って一言目は何と言おう。私がグ・ラハ・ティアだとばれないように、冷静で老練な管理者を取り繕って、それでも歓迎の気持ちと伝えつつ安心を与えられるような。ああ、頭がまとまらない。
焦って扉を開けてしまったせいで、存外大きな音が出てしまった。目を白黒させてこちらを振り向いているドッサル大門の衛兵が何か言う前に、人差し指を口に当てる仕草を見せる。今、何か話すとボロが出てしまいそうだ。
驚いた様子の衛兵をそのままそこに残し、オレは更に階段を走った勢いを使って一息で降り、人の波をかいくぐりながらエーテライトプラザを抜けてテセレーション鉄橋を駆け抜け、その先にいるあの人を目指す。
そもそもあの人はオレを覚えているのか。あの人の長いながい旅路においてたった一瞬と言える、アラグの神秘を辿る冒険を。その最後に姿を消した、オレのこと。
きっと早鐘のようになっている心臓を抱えて、そう遠くないはずの門まで全力で走る。
ようやく見張り台を備えたそこへ辿り着くと、ライナとその部下たちが誰かと問答をしている様子だ。衛兵たちが視線を向ける先には、クリスタルタワーを目指して歩いてきた、オレが待ち焦がれてやまない英雄その人がいた。
いざ声をかけようとした矢先、ライナがさっと武器を構えてあの人へ向かっていく。
一体何を言ったんだ、あの人は。咄嗟のことにすぐに声が出ず、足ばかりが速度を上げて手を伸ばす。だが、ライナが放った円輪はあの人の横を擦り抜け、背後に迫っていた罪喰いを退けたのだった。慣れない気配に気付けなかったのだろう、霧散していくはぐれ罪喰いを視認したあの人の背中には驚愕の色が滲んでいる。
「ライナ、大丈夫か?」
私が呼びかける声にライナと、あの人が振り向く。
空高く光る彼方の英雄が近くに、手の届くところにいる。数百の時を超えて交わった視線。変わらず、それどころかより強さを増した輝きを宿す瞳に思わず息が詰まったが気取られていないだろうか。
あくまで冷静に、単なる街の管理者として、ライナに哨戒の依頼とこの新たな来訪者を連れて行くことを伝える。肩を竦めて、それでも深くは聞かずにいてくれる孫娘のやさしさが今は特にありがたい。
私たちが話す間もじっとこちらを見ていたあの人にひとまずは共に来るように促すと、じとりとした視線を寄越しつつも素直についてきてくれた。
先を行く私の少し後ろをサクサクという足音がついてくる。あの人が歩いている。私と一緒に。徐々に鉄橋が近づいてくる。街の中に入る前に早く、何か言わなければ。
意を決して足を止めると、あの人の足音も一緒に止まった。ばれないように一つだけ深く息を吸って、あの人を振り向く。
「さて……」
彼方の時空から預かった希望を、オレ自身の願いを、今。
さあ、ここからが本当の正念場だ。