手当て

久しく日の目を見ていなかった赤くてやわらかそうな耳が忙しなく動いている。重いローブに隠れて見えないが、きっとふさふさした同じ色の尻尾も落ち着きなく動き回っていることだろう。クリスタリウムの民たちはまるで見た目通りの若者のような一面を垣間見せる自分たちの大切な人、水晶公を微笑ましく見守っていた。さらにその水晶公が夢中になって見つめている先には言わずもがな、闇の戦士たる旅人がこれもまた忙しなく働いている。

早く声をかければいいのに、と誰もが心の中で思いながら公のいじらしい姿を眺めていたくて遠巻きに見守っていることを本人たちだけが知らない。街のために心を砕き、あらゆる手を尽くしてきた背中を数世代に渡って見守り続ける民たちの視線に公は気づくことが出来ないのだ。

ふ、と赤い耳が一際跳ねる。その視線の先の旅人は、大きな荷物をムジカ・ユニバーサリスの雑貨屋に運び込み、感謝の言葉と受け取りの署名をもらっている場面だった。休息日でも何かと人に雑用を訊いてはお使いに走り回るような人だ、この機会を逃せばまた何処かへ行ってしまうだろうことはかの旅人をずっと見てきた水晶公には容易に想像出来た。

逡巡するように何度もローブの裾を握ったり離したり、一歩踏み出しては留まったり。意外と思いきりの良い街の管理者としての威勢は何処へやら、駆け出す勢いすら深慮の間の戸棚に仕舞い込んだようにもじもじとその場から動けずにいる。そうこうしているうちに渦中のもう一人が塔と同じ輝きを人波の中に見つけた。
「水晶公! マーケットで会うなんて珍しい。お散歩?」
「あ、ああ……そんなものかな。街のみんなの手伝いをしてくれたのだな、ありがとう」

水晶公が埋められなかった距離をその人はいともかんたんに、なんの躊躇いもなく駆け寄ってくる。そんな二人の間に流れる穏やかな空気を街の人々は一等大切に思っていた。親のような、祖父のような、時には友である大切な人がやっと手に入れた時間がずっと続けば良いのに、と願わずにはいられない。
「いいえ。置いてもらっている身だし、何もしていないのは性に合わないから」
「ああ、あなたらしいよ。それでも、もう少しゆっくりしてくれると安心出来るのだが……」
「ふふ、みんなにも同じこと言われたよ。大丈夫、夜は休むようにするから」

何気ない会話の端々に滲む公からの親愛を旅人は気付いていて、気付いていない振りをしていた。本人としては気付かれないように隠しているらしいから、それに付き合っているとも言える。妙なところで恥ずかしがる公が自分の内側に溜め込んでいるあれそれを勘付かれていると気付けば、きっとこれまで通りに接してくれなくなることは目に見えているからだ。
「……ところで、公」
「なんだろう?」
「手、貸してくれない?」
「ああ、勿論。どんな依頼の手伝いかな」
「いや、その手助けじゃなくて。その手」

旅人の申し出と共に指でさし示された先は、水晶公の名前の所以でもあるクリスタルに覆われた手だった。意図を汲みきれずその場で停止してしまった公を良いことに、旅人はその淡く光る手を取って自分のそれと重ね合わせる。手のひら同士を合わせて指を組む、まるで恋人たちがするように。

いきなり、それも一番憧れている旅人──もとい英雄本人自ら積極的に接触されては、百余年のうちに老成した水晶公も狼狽するというもの。顔を耳と同じくらい赤くして目を白黒させている公を見て英雄は悪戯っぽく笑っていた。
「あ、あんた……! 何笑ってるんだ!?」
「いや、ふふ、いや? 実はね、」

英雄曰く。最近、また水晶公が研究や街のことで根を詰めていることを気にしていたそうだ。そこで、先程届け物をした店の主に何か緊張を解すような妙案がないか、と相談したところ、〈手当て〉という策を授けてくれたというわけだった。
「治癒魔法をかけていなくても、手を当てるだけで痛みがましになることもあるって聞いたことがあるからさ。気持ちだけの問題かもしれないけれど、何もしないよりはと思って」

企みが成功して嬉しそうな英雄は水晶公の手の感触を確かめるように握りながら話し続けているが、説明を求めたとはいえ公は気が気ではなかった。とりあえず、あとでその店には顔を出しておこうと心に決めた公はなお手を握り続けている英雄のそれにもう片方の生身の手を重ねる。
「あの、ありがとう……気を遣ってくれたことはよく理解した。だが、老人にはどうにも刺激が強いから、程々にしてはくれないだろうか……」
「そう? で、元気出た?」

表には出していないがそれなりにいっぱいいっぱいの水晶公が絞り出したお願いは、英雄によって軽く受け流されてしまった。代わりに繰り出された英雄からの問いに公は答える言葉を一つしか持ち得ない。
「……ありがとう、体が少し軽くなったよ」
「よかった!」

お世辞でもなんでもなく、事実水晶公は体の凝りが少し和らいだように感じていた。気の持ちようなもしれないが、それでもやはり英雄が成すことはすごい。公は改めて目の前で何か音でも出ているのではないかと錯覚するほど嬉しそうにしている英雄はすごいのだと思い直す。当の本人はもう一度だけ強く握って、名残惜しそうにクリスタルの手を解放してくれた。そして、いつもの早着替えを披露してまた街の外に行くことを示す。
「また無理していたら手を借りにいくからね」
「……無理しないように頑張る……」

手を振って円蓋の座へ向かう背中越しに英雄は水晶公へ言葉を投げかける。それに対して公が肩を竦めながら答える。二人にとっていつもの流れに戻っていく。
「じゃあ、行ってきます。明日には帰ります」
「ああ、どうか気をつけて。いってらっしゃい」

英雄の背中が見えなくなるまで見送った後、水晶公がその場に座り込んでひとしきり呻いていたことは、一部始終を眺めていたクリスタリウムの民たちには公然の秘密となったのはまた別の話。