雨上がり
石の家を拠点にしている暁の人員は少なくない。英雄として各地に引っ張りだこなあの人もその内の一人だ。だから、あの人に用事がある人たちがセブンスヘヴンめがけて駆け込んでくることもしょっちゅう。
今日だって本当は私と鍛錬の予定だったのに、朝早くに双蛇党の人と一緒にグリダニアまで飛んでいってしまった。すぐに終わらせてくるから、とは言っていたけれどあの人のそういう台詞は一つも信用出来ない。その証拠に木人叩きと魔法の論文を読んでいても帰ってこないし、もう日は傾きかけていた。
あの人はあの人の役割を果たしているだけだし、そういうところも嫌いじゃないのだけど、それでもなんだか忘れられているようで少し腹が立つ。
「戻りました」
「おかえり。おや、彼は黒渦団の……すぐに出るのかい?」
「そう、荷物を取りに帰ってきたんだ」
外の酒場の声が少し入り込んできたと思ったら、あの人とアルフィノが話している声が続けて聞こえてきた。内容は決して嬉しいものじゃなかったけれど、無事に帰ってきたみたいで良かった。
きっと出入り口にいるあの人からパーテションに向こうにいる私は見えないだろうし、すぐに出るなら顔を合わせることなく出ていけばいい。帰ってきたら今度こそ鍛錬に付き合ってもらうんだから。
「アルフィノ、アリゼーはどこにいる?」
だから、アルフィノ。黙っているのよ、と心の中で睨んでみても、鈍感を絵に描いたような兄には勿論伝わることなく、真面目にこちらの居場所をあの人に教えてしまったみたいだ。すぐにカツカツと私のより踵が高い靴を鳴らして、あの人はパーテーションの端から顔を覗かせてきた。
「アリゼー」
「……おかえりなさい」
チラリ、と怪我がないことだけを確認して、さっきから全然頭に入ってこない論文に視線を戻す。我ながら可愛くない振る舞いだわ。
「アリゼー、ごめんね。今日は約束の日だったのに」
「別に、気にしないで。また別の機会にすればいいだけじゃない。この後も出かけるんでしょ?」
「うん、ごめんね」
さらりと流れるような所作であの人は席の対面に座るけれど、そっけない態度を取ってしまっていることに湧いてきた罪悪感があの人へ視線を向けることを許してくれない。見なくてもどんな表情をしているか分かるくらい、声音に申し訳なさが滲んでいた。
「だからさ、せめて詫びくらいさせてほしいな」
コトリ。もうさっぱり分からなくなってしまった術式の書かれた紙の束を机に降ろすと、リボンで着飾ったガラスの小瓶が置かれている。やっとあの人に目を合わせると、いつもの少し胡散臭いくらいの笑顔が早く手に取ってと訴えかけていた。
望まれるまま、興味にも背を押されて持ち上げた小瓶には透明な液体が入っているようで、揺らすと小さな波が立ってキラキラしている。飲み物にしては少なすぎるし、薬にしては気の利きすぎている瓶に見えた。
「なに、これ?」
「イイもの、グリダニアの女の子たちの間で流行ってるんだって。もし気に入らなかったら飾るなり誰かに譲るなりしてもいいよ」
「流石にそんな失礼なことしないわよ」
「そうだね、アリゼーはそういう子だ」
素直に問うたのに少なすぎる答えが返ってきた。結局この小瓶の正体が何者かは教えてくれるつもりはないらしい。こういうところは子どもっぽいんだから。
「じゃあ、俺は行くよ。また連絡する」
「いってらっしゃい、気をつけてね」
本当に忙しいらしく、席を立ってからはいつもより足早に歩いて待たせていた黒渦団の人と一緒にどこかへ出かけていってしまった。背中を追うアルフィノの声も遠くに投げかけるようなもので、よほど焦っていたのだろうと分かる。そんなに忙しいなら私たちの誰かを連れていけばいいのに。
「あの人ったらもう出ていってしまったの? 渡したいものがあったのだけど……仕方のない人ね」
入れ替わるようにしてヤ・シュトラが向かいの席についた。呆れるように溜め息をつきながら彼女が机に置いたのは、最近あの人が凝っているらしい錬成薬だ。ずらりと並べられた武骨ささえ感じる機能的な瓶と見比べると、やっぱりもらった小瓶は可愛い。
「あら、アリゼー。あなた、香水なんていつの間に手に入れたの?」
「これ? あの人が今日のお詫びにってくれたの」
すぐに私の手の中にある瓶に気付いたヤ・シュトラは私が欲しかった答えをすぐに手渡してくれた。どうやらこの小瓶は香水が入っているらしい。そう言われれば、お母様の鏡台に並んでいたものに似ているかもしれない。うんと小さな頃、憧れていた大人の持ち物を期せずして手に入れてしまったみたい。
「そう、あの人が香水、ね……ふふ」
「ヤ・シュトラ?」
「なんでもないわ。その香水だけれど、グリダニアに腕の良い調香師がいるらしくてね。非番の日の贅沢品として、ちょっとした流行になっているらしいわ。店先はいつも女の子たちでごった返しているとか」
「ふうん……」
意味ありげなヤ・シュトラの笑みの答えを追求することは止めておいて、代わりに私はもらった小瓶を改めて観察することにした。店頭で女の子たちに混じって小瓶を見比べるあの人を想像したら少し面白くて可愛い。暁の男性陣の中では線が細く見えるとはいえ、女の子たちの中に入れば相当目立ったことだろう。きっとそのお店は英雄も立ち寄った店として更に混むだろうな、とか、あの人はそういうことには全く気付かないだろうな、とかいろいろな考えが頭の中で渦巻く。
「折角もらったのなら、香ってみれば良いんじゃなくって?」
「香るって……ヤ・シュトラ、やり方を教えてくれない……?」
「ええ、勿論よ」
こういう時のヤ・シュトラは本当に心強いお姉さんに感じる。戦場ではない日常生活では少し、いやかなり心配になることもあるけれど。
ヤ・シュトラ曰く、香る時は瓶の口を手であおいで嗅ぐらしい。使い方は肌に少しだけつけたり、手拭いに含ませたり。湯船に混ぜるのも良いらしい。どこでそんなことを知ったのか興味本位で聞いたら、マトーヤ様のとっておきの香水で遊んでいたの、とヤ・シュトラは悪戯っぽく笑っていた。
早速、試しに香ってみようと小瓶の蓋をそうっと開けて、手で口の部分をゆっくりとあおぐ。
甘酸っぱい果実と花。やさしいけれど、どこか複雑で物悲しいような。シャーレアンの沈思の森に雨が降る風景を思い出した。
「……甘いわ……」
あの人はこの香りに何を想ったの。あの人の帰りはいつでも待ち遠しいけれど、今日は一層声が聞きたいと願ってしまう夜になるだろう。