第二幕

深くふかくに潜るような音とまばゆい光に包まれる。はぐれないように、と繋いだ両手には緊張のせいか力がこもっていた。安心は出来ないけれど、オレはここにいると示すように指に力を入れると握り返してくれる二人に少しだけ安心する。

長いようで短いような時間を経て、ようやく目蓋の裏から刺すような光が止んだ。ようやく到着したか。そっと薄目を開けて周囲を確認すると、そこはあまりにも見覚えのある場所だった。アルフィノ、アリゼーも辺りを見回し、絶句している。

見上げれば、夜空に星々がまたたいている。しかし、一等明るい星よりもなお強く光るものが目の前にいて、視線はすぐに下げざるをえなかった。空の色で知らせられるよりも、この場所がどこなのか明らかにしてくれる。
「……水晶公」

その名の通り、永く親しんだ魔道士の衣ごと水晶になりきった最早懐かしい姿がそこに佇んでいた。

ここはあの人の、光の戦士の記憶の淵。第一世界での最終決戦の舞台だ。そう理解した時、オレたちは確かにあの人が紀行録に込めた記憶、その想いの中を航行しているのだと実感した。
「三人とも、大丈夫か?」
「……またここに来ることになるなんてね」

力強く頷く双子にほっと胸を撫でおろす。だが、クルルの返事がない。慣れないエーテル制御のせいで感覚が遠のいているのだろうか。
「……クルル?」
「ねえ、ちょっと。クルルってば、大丈夫?」

クルルは紀行録を抱いたまま俯いて、微動だにしない。まさか潜航の時に何か負荷がかかったのか、しゃがみこんで顔を覗き込んでもクルルはこちらに関心を向けてくれない。
「──受け取ったソウルサイフォンはあたたかく、それが公の、グ・ラハの願いの熱だと思った」

常では決して聞くことのないクルルの硬質な声音は、固唾を飲んで見守るオレたちに向けられた言葉ではないことは明らかだった。未知の領域で起こることだ、最悪の事態を避けるために少ない情報で判断をしなければいけない。
「──独りにしないと言ってくれたから、だから置いていきたくないんだ」

今の言葉の意味は何だ。まるであの人に似た口調だった。それに、オレたち三人には起こらず、クルルにだけ起こっている現象。考えられる可能性は、超える力の有無だろうか。
「超える力で紀行録と交感し続けている……?」

まるで答え合わせをするように、俯いていたクルルが抱えていた紀行録を広げる。すると、風もないのに独りでにページがめくれて周囲の景色も一緒に駆け抜けていった。あまりにも早すぎる奔流の中、捉えられたのは見覚えがある景色があったからだ。テメノスルカリー牧場でアマロと戯れる姿、罪喰いと相対する場面、見慣れたクリスタリウムの住人たちの笑顔、フードを被った自分。そのどれもを見逃したくなくてまばたきすら止めているとじわりと目の奥が熱くなる。
「見て! あれ、海底にあった古代の遺跡!」
「グラン・コスモスも、クリスタリウムも見えた……開いたページで私たちの居場所も移り変わるのか!」

アリゼーとアルフィノにも見えた景色はやはりあの人の記憶に違いない。ずっと見ていたい、だがこんな速さで移り変わっていてはいつか目を回してしまうし、クルルにどんな負担があるのかも分からない。
「っ止まってくれ……!」

オレは咄嗟にめくれていくページに手を差し入れて見えない風を止めると、ただ流れていくだけだった景色がふつりと嘘のように止まった。やはりページの進行とオレたちの立ち位置は連動しているらしい。やはり見覚えのある、思い出深いというにはあまりにも強い記憶の景色が周囲を現れていた。およそ今の世界には存在しない背の高い建物が雲から突き立っていて、その向こうを白んでいるというには色づき過ぎた夜明けが顔を出している。ここは星にとっての悪役を定める裁定が演じられた舞台だ。
「クルル! おい、返事してくれ!」
「──覚えていろだなんて言って。どれほどの想いを手渡されたのだろう」

クルルの声が静かに語り出す。
「──なりそこないにはすべてを分かりえないけれど、分からないなりにもがいてやろう」

アルフィノもアリゼーも握り込んだ拳を震わせて、ただ黙して聞き入っていた。あの人が語ることをよしとしなかった想いにふれる度、エスティニアンが問うた覚悟が揺らぎかける。誰にも弱みを見せまいと、英雄らしく立ち続けようとしたあの人の想いを踏みにじるような真似をしている自覚があるからには罪悪感がないわけがない。だけど。

この風景に込められたあの人の想いの欠片がクルルを通して語られきった瞬間、閉じられたままだったクルルの目が不意に露わになった。
「……みんな、無事……?」
「クルル! 大丈夫なの!?」
「うん、大丈夫……ずっと、みんなの声は聞こえていたから」

クルルは少しくたびれた様子だったが、それでも笑顔を見せてくれていた。やっと四人揃って意識を保ったまま旅の記憶の中に存在出来ている今、潜航は成功したと言えるだろう。
「本のページをめくるとね、あの人の想いと景色でいっぱいになってしまうの。ハイデリンに体を貸していた時のような感じに近いかも」

オレが手で押さえているせいで開いたままになっているページを見遣りながら、クルルは深く考えている様子を見せた。
「なるほど、クルルさんが見ていた景色を私たちも見ていた、ということだろうか」
「さっきまでクリスタリウム……第一世界の風景がたくさん流れていっていたの」
「……そう、あれが第一世界なのね。ラハくんが百年も過ごしていた世界、ずっと見たいと思っていたのよ。まさかこんな形で叶っちゃうなんてね」

クルルはこんな状況でも笑顔を深め、茶目っ気たっぷりにパチリとウインクを寄越してきた。この人はこういう人だった、と思わず顔を見合わせたアルフィノの表情はさっきまでよりも随分和らいでいるようだ。

さて、クルルの話で分かったことと試したいことががいくつか出来た。早速、三人にオレのかんたんな仮説を聞いてもらう。

ここがあの人の記憶で出来た世界であるなら、心に強く残った出来事にふれることでエーテルから記憶だけを抜き取ってしまうきっかけが見つかるのではないか。もしかしたら、記憶を体験することでトラウマやストレスといった原因を取り除くことも出来るかもしれない。
「そもそも、好きなページを開けるの?」
「……難しいかもしれない……押さえていないとページが勝手にめくれそうなんだ」
「ま、出たとこ勝負なら任せなさい。あの人の旅なんだから、私たちもよく知っているわ」

思ったよりも冷静さを失っていたのかもしれない。自分の手で押さえているページの存在を失念するなんて。力強く拳を握って見せるアリゼーのひたむきさに、また救われてしまった。
「だけどその前に、クルルさん。この潜航は何度も出来ることではない、そうですね?」

ぱちり、と大きな瞳が不意打ちを食らったというようにまたたき、やがて曖昧な笑みに変わっていく。ガラフさんに難題を渡された時によく見た記憶がある、クルルが困った時の表情だ。終末を巡る戦いの最中、クルルはオレたちに接触を図るハイデリンに力を貸したことがあった。体を明け渡した後はかなり消耗していたから今回も同じような状況なのだろう。どちらも彼女の超える力、意志を読み取る力を使っているのだから。
「……そうね。きっと何度もページをめくったり、長時間その場に意識を置いておくことは難しいと思う」
「具体的に何回くらい、とかって分かるか?」

初めての実験なのに無茶なことを聞いている自覚はある。それでもクルルは真面目に一生懸命に考えて、三本の指を立てて見せた。
「多くても三度。それ以上はみんなを危険な目に遭わせてしまうかもしれない」

現状、クルルの超える力を使うことでしか前に進めないのに、それが彼女にとって負担になっていると分かっているなら無茶はさせられないしさせたくない。もしも今の策があの人を連れ帰るまでに至らなくても、方法論を一つ実証出来ただけでも良しとして、また新しい方法を考えれば問題ないのだ。躓いても迷っても、必ずオレたちはあの人に辿り着いてみせる。どんな手を使ってでも。
「あの人の想いにふれて分かったの。必ずこの先に答えがある。あの人が危険を冒してまで記憶を封じ込めた、その意味が分かるはずなの」

独りでにページがめくれないように押さえていたオレの手にクルルの小さな手が重ねられた。あたたかい、でも少し震えている。
「だから、進みましょう」