第三幕

ずっと眠っていたとはいえ、あの人の旅路は第八霊災の先でそれこそ言葉で溺れるんじゃないかと思うくらい浴びてきた。だから、きっと並みの奴らよりはあの人の冒険を知っていると自負している。まるで一緒にいたみたいだ、とあの人に驚かれたことだって何回もあるくらいだから自惚れではないと信じたい。

それでも、やっぱり隣りにいたアルフィノとアリゼーに敵うはずはない。空気を、においを、あの眼差しをその場で見て感じてきた経験は、想像では到底埋められないのだ。羨ましい、オレもそこにいたかったと思わなかったと言えば嘘になる。こんな子どもっぽいことを考えているなんて知られたくないな、と願いながら次に見られる景色は何だろうかと話している三人を眺めていた。
「あ、ラハくん」
「ん?」
「次からは私が自分でページを押さえてみるわ。だから、探索に専念してほしいの」
「……分かった、ありがとな」

もしシドの時のようにあの人の記憶の中の何かが襲いかかってきてもすぐに対応出来るように、念のためクルルを背中に庇って三人で囲うように陣形を整える。知っているけれど知らないあの人の過去を目にすることが出来ると思うと、胸が高鳴る。こんな顔、知られたくないから背中合わせの陣を作れて良かった。
「じゃあ、ページをめくるわね」

こくり、と大きく頷いたオレたちを見て取ったクルルはページを押さえていた手を離す。

すると、紀行録の上にだけ小さな嵐が巻き起こり、やはり同時に夜明けのアーモロートが過ぎ去っていく。あの人の紀行録はどうして風が吹くのだろう。波乱に満ちた旅路だったからか、それともあの人の胸の内にはずっと嵐が吹き荒れていたのだろうか。抗いがたい風の刃の間を縫って、クルルの手があるページを押さえこんだことで目の回る記憶の嵐は嘘のように静まった。

見たことのない荒野だ。アルフィノとアリゼーにも見覚えがないようで、きょろきょろと辺りを見回している。灰色の空、地面を深く掘って作られた道、そして遠くから聞こえる爆発音からどうやら戦場らしいということは分かる。すでにこの近辺での戦闘は終了した後なのか、あちこちに派手な穴が開いていたり、焦げた魔導兵器が転がったりしていた。帝国との大規模戦闘なら、ギムリトだろうか。しかし、あそこはアリゼーも参戦していたはずだから彼女に見覚えがないのはおかしい。
「進め!!」

物々しい足音と声がどこからともなく現れる。背後だ。振り返ると揃いの軍装に身を包んだ兵士たちが各々の武器を手に押し寄せてくる。まるでオレたちなんて見えていないかのように速度を落とすことなく、真っ直ぐに。このままではぶつかる。
「アルフィノ、アリゼー!」

オレが叫ぶより先にアルフィノはアリゼーの腕を掴み、展開してあった賢具で厚い障壁を張った。一瞬の早業は一緒に旅をしていた時よりも数段速く、正確なものだ。だが、その障壁ごと二人の体を兵士たちは擦り抜けていく。怪我は、とか流石の術だな、とか気の利いた言葉一つでもかけようとしていたら、今度は不意に頭上から影が落ちてきた。記憶の中でも天気は悪くなるのか、と空を見上げるとそこには雨雲なんかよりずっと黒い鉄の塊が砲門を展開している。
「帝国の戦艦だ!」

本を抱えたまま動かないクルルを咄嗟に抱えながら剣を杖に見立ててアルフィノを引き寄せ、艦の進行方向とは逆に駆け出して近くの穴に飛び込む。次の瞬間にはすさまじい轟音が響き、さっきまでいた場所に大きな穴が開いていた。強かに打ちつけた尻が痛いが、あのまま突っ立っていたらそれどころではすまなかっただろう。
「あっぶねぇ……大丈夫か、みんな」
「何なのよ、あれ!! あの人、あんなのがうろついてるところに来てたの!?」

元気に吠えるアリゼーと宥めるように頷いているアルフィノを確認してひとまず安心出来た。記憶の中といえど、否、人に擦り抜けられるエーテル体になっている今の状態だからこそ、どんな条件で負傷するのかも分からないのだ。もしもここで重傷を負えば現実の体にどんな影響があるか分かったものではない。

土が焦げるにおいと煙がオレたちにまとわりつく。いつの時代もどんな場所でも、命のやりとりがある場所につきまとうものだ。思わず膨らみそうになる尻尾と耳を意識的に抑えて、周囲の警戒を強めた。感覚を鋭くしたからか、ようやく利き始めた鼻が知っている匂いを嗅ぎあてる。戦場ではない場所の記憶が呼び起こされるような、安心するその匂いの正体が何か分からない。
「──七獄、炎獄はこんな風景なのかもしれない」

おもむろにクルルが口を開く。漏れ出る言葉には明らかな重みが乗っていた。このままゆっくり聞いていたいところだが、近付いてくる轟音がそれを許さない。ひとときでも落ち着ける場所があの人をして炎獄と称される戦場にあるのかは分からないが進むしかなさそうだ。
「グ・ラハ、このままあの障壁に向かって進もう。あれは帝国の技術ではないはずだ」
「そうか、帝国の敵対勢力ならあの人がいるかも」
「なら、さっさと行くわよ」

苦しくならないようにクルルを抱きかかえなおし、オレたちは潜り込んだ塹壕から頭を出さないように、近くにあるはずのレジスタンスたちの基地へ進むことにした。上手くいけばこの記憶の中のあの人に出会えるかもしれない。
「──どこに行っても硝煙と鉄のにおいに満ちている。どこまで征けば戦は終わる」

遠くから腹の底に響く低い地鳴りと強いエーテルの波動が肌を粟立たせる。さっき擦り抜けていった兵士たちが帝国軍とぶつかったのだろうか。
「──正義を振りかざす、どちらもが悪鬼のように見えた」

暴力が飽和する地平がどこまでも続いていく。

青空なんてものは夢だったのかと思うほど、敷き詰められた暗雲が広がっている。

ここにあの人が置いていった心は、哀しみなのではないか。

二人は押し黙ったまま、しかし決して俯かず五感すべてを使って考え続けている。この場所に込められた記憶はあの人にとっての何なのか。
「……ねえ……」

基地や前哨地の影すら見えない中、アリゼーが兄の袖を引いた。もう片方の手で指し示されたのは、こちらに近付いてくる土煙だ。オレもアルフィノも一緒になって目を凝らすが、まだ遠くてその正体を見て取ることは出来ない。恐らく帝国か彼らと相対する勢力のいずれかが進軍してきているのだろう。
「もしかして、ここってボズヤ解放戦線なんじゃない?」

アリゼーが口に出したそれが答えだと言うように、高らかな獣の咆哮が響く。否、獣ではない。人の、強くつよく明日を求める人の叫びだ。一瞬にして圧倒的な魔力が一面を焼き尽くしていく。塹壕が風を除けてくれているのに、立っているのも難しくなるほどの爆風があまりに小さいオレたちに吹き溜まった。薙ぎ倒された帝国兵はあちこちに倒れ伏したまま動かない。
「そんな……! 今、治療を!」
「駄目、危ない!」
「離してくれアリゼー! まだ間に合う!」
「馬鹿アルフィノ! ここに、何しに来たのよ!」

まだ燃え盛る炎に突っ込んでいこうとするアルフィノを必死で止めるアリゼーも悔しそうに、視線だけは帝国兵たちから離さない。
「……っ見るな!!」

だから、気付いてしまったのだ。揺らぐ陽炎の先、見覚えのある光がちらつくことに。
「──これでも彼らは英雄だと言ってくれるだろうか」

オレが二人の目を塞ごうとした時にはもう、遅かった。

瞳ばかりがやけに光を帯びているのに、そこだけが暗いような気もする。汗で額に貼りついた神を雑に籠手で拭って、また得物を取り直す。何気ない動作一つに周囲の気配が惹きつけられ、蠢いていた。敵も味方も、遠目で眺めているだけのオレたちも巻き込む悲鳴と怒号の嵐の渦中であの人は確かに微笑んでいた。クルルが教えてくれた、あの人の言葉がすべてを物語っている。あの人が〈英雄〉と呼ばれる意味をオレたちは知ったつもりになっていただけなのだ。

引き結ばれた唇がいくつか言葉を漏らす。聞こえない、でも来る。
「下がれっ!」

渾身の力を込めて叫んだあの人の名前は風に押し流されていった。

みんなの前に飛び出しながら剣を地面に突き立て、エーテルのヴェールを展開させる。その一瞬後に凄まじい爆炎と圧とがオレたちのいる塹壕をも巻き込んで駆けていった。押し返されそうになる力をなんとか剣で支える中、あと一呼吸遅かったらともしもを考えそうになる。駄目だ、今は目の前の危機を脱することだけを考えろ。
「ラハ!」
「大丈夫、だが長くは保たない……! ページをめくってくれ……!」
「クルル! 起きて!」
「……ん……大丈夫、すぐ次に行くからね」

後ろに向かって言葉だけを投げ渡すとすぐにアリゼーがクルルの肩を揺らしてくれた。彼女自身の意識が浮上するや否や、ページを押さえていた手がゆるめられる。同時にあの場にいてはいけないオレたちを飲み込もうと牙を剥く圧が消え、戦場も跡形もなく消え失せた。あの人の記憶の中だったのだと忘れかけるほど、肌を焼く熱も身をまく煙も本物のような息苦しさの名残がまだ腕に残っている。

アリゼーの言うように、オレたちがいたのはボズヤ解放戦線で間違いないだろう。嵐の向こうにいたあの人はかの戦場に行くと行っていた時の装備と同じだった。あの人が置いていったもの、恐らくオレたちから隠したかったものは、きっとあの姿だ。

もう見えなくなってしまったとしても、オレはあの炎を振り向かずにはいられなかった。痺れが残る手を伸ばしても、もう届かない。
「……あの人、笑っていたわ」
「…………」

アルフィノとアリゼーの表情は重い。二人は一等あの人に憧れて、守られるだけではない共に在る人になりたいと言っていたから、まるで暴力が形を持ったような姿を目の当たりにして衝撃を受けたのだろう。隠さなければいけないと思わせていたことが、そう思われていたことが悔しい。
「……エスティニアンさんの予想が当たったみたいね」

すさまじい速度で飛んでいく記憶の景色を背景に、クルルがぽつりと呟く。体は大丈夫なのか、と目配せをすると大きくゆっくり頷いてくれた。
「やっぱり、あの記憶は……」
「見せたくない、と想いが強く叫んでいたわ」

クルルが視線を本から上げて、過ぎ去った戦場に存在し続ける影を見遣る。アルフィノとアリゼーはクルルの言葉の意味を飲み込もうと、俯き考えていた。

オレは意識的に顔を上げる。駆け抜けていく記憶の景色を見逃したくなかったから。奔流の中にあの人が武器を執っている姿を見つけたけれど、オレたちがさっき見てしまったそれとは全く違う。オレたちが知っている背中、眼差し。あの人は一体どれほどの想いを身の内に押し込めていたんだ。
「このままじゃ駄目だって思いながら、それでも剣を振るっていた。英雄という役割をあの人なりに必死に全うしようとしていたのよ。でも、そんな姿を私たちには見られたくなかった」
「あの記憶を隠すために、すべての記憶を抜き取ってしまったのか?」
「可能性はあるわね。もしかしたら、他にも理由はあるのかもしれないけれど」

クルルの肩に手を添える。きっと感情に直接ふれているクルルには想像よりも負担を強いているだろう。大丈夫、と微笑む眼尻には疲れが見えてきていた。記憶を探れる回数はあと二回。あの人が記憶を封じてしまった理由を必ず見つけなければならない。
「……何でも出来るのに、自分のことはほんっとうに不器用なんだから」

俯いていたアリゼーが大きく溜め息をついて、バチンと自分の両頬を叩く。再びオレたちを見る瞳には笑みと少し拗ねたような色が混じっていた。
「この先に進めば、あの人が隠そうとしていたことをもっと暴くことになるわ。改めて訊くけれど、本当に進むの?」
「ええ、だから起きたらきっちり謝るわ。許してもらえないかもしれないけれど、あの人がずっと寝たままなのは嫌だもの」
「……ああ、引っ張ってでも一緒に帰ってみせる。エスティニアンに啖呵を切ってきたんだ、こんなところで逃げ帰ることはしないさ」

あの人への気持ちをただの憧れだけだと見くびっていたのはオレだったらしい。起きたら隠し事をしていたことも訊かないとね、と静かに怒っているアルフィノなんて旅の中では見れなかった。あの人が護り抜いた人々は確かに自分の足で歩きだしている。

なあ、こんなところに閉じこもっている場合じゃないぞ、英雄。