第四幕

記憶は大きく分けてニつに分類出来るらしい。

一つは認識した記憶。覚えていたいと意識したものがこれにあたる。どうしても人の認識を通して記憶されるから、時に覚えていたいように歪み、事実より誇張されたり、あったものがなくなったり、なかったものが現れたりしてしまうことだってある。もう一つが無意識の記憶。覚えていようと意識せずとも刷り込まれるものだ。たとえば風景や天気、匂いなんかもこれに該当するそうだ。

二度目にクルルがページを止めると、そこはきれいな夕陽が見えるどこかの屋上だった。時間が経っているのにも関わらず鮮やかすぎるほどの橙色は、この記憶があの人にとってひどく印象的なものだったことが伺える。

そして、目に見えて狼狽するアルフィノの様子にすべてを理解した。第八霊災の先でも、今オレたちがいる世界でも語り継がれる竜と人の歴史の一幕。手に馴染む本の重みが手に蘇る。
「──どうして彼が死ななければならなかった?」

一呼吸遅れてアリゼーも状況を察したようだ。辺りを見回して、必ず現れるだろう影を探した。
「──頼ったから巻き込んだ」

誰かがオレたちの両脇を駆け抜けていく。刹那に見たあの人と盾を背負った銀髪の騎士の瞳は爛々と燃えていた。

あれが護国の騎士、銀剣のオルシュファン卿。肖像画よりも凛々しく、冷たささえ感じる瞳にはよくよく知っている熱が混じっていた。雪原を溶かすほどの熱意、あの人と共に在ることの喜び、場違いだと怒られかねない感情が渦巻いているあの瞳をオレは識っている。

二人が目指すのは今まさに飛空艇に乗り込もうとしている最後の教皇トールダンと彼の騎士たち。何度も読み返したあの場面が目の前で再演されているのだ。

そして、その瞬間は訪れる。
「危ない!」

吠えるオルシュファン卿と同時に、気が付けば駆け出していた。

世界の速度が遅くなったように、すべてが見える。

一条の光は真っ直ぐに英雄を貫こうと迫っていた。

何度も、何度も何度も夢に見た、あの瞬間。もしもあの場にいられたなら。もしもオルシュファン卿を、あの人の心を守ることが出来たなら。歴史にもしもはないと分かっていても、目の前にすれば体が動かないはずがなかった。そう、あの人だって。あの人こそ強くつよくそう思ったはずなんだ。

軌道に立ち塞がる騎士を押しのけて、あの人が前に出る。
「ラハ!!」

渾身の力を込めて地面を蹴り出し、前へ。

たとえあの人の記憶の中で歴史を変えたって現実には何の変化ももたらすことはない。もしかしたら、庇ったという虚構の事実がオレのエーテルに作用することはあるかもしれないし、それでオレが何者でもなくなる可能性だってある。

でも。

ああ、もうすぐ手が届く。オルシュファン卿を庇うあの人を更に護るように白く光るエーテルの盾を構えた。きっと卿がしたように、いつかの戦場で獣たちに抗ったように。止まりかけている世界で背後のあの人を振り向く。決して交わらない視線が一瞬、オレを捉えた気がした。

そして、あの槍は一角獣の盾とあの人の友を〈正しく〉貫いていた。
「オルシュファン卿!」

アルフィノが叫ぶのと同時に、アイメリク卿の悲痛な声が響く。転がるように駆けてくるアルフィノとアリゼーはまるで親を見つけた迷子の子どものようだった。数年の時を経て、あの人の傷を目にした二人はイシュガルドにいた頃の自分に戻りきってしまっている。

確かにオレの後ろにはあの人、さらにその後ろにオルシュファン卿がいたはず。だが、咄嗟にオルシュファン卿が前に出てきたのか、あるいはこの場における歴史は決して変わらないのか、卿があの人を護り通した。

腹を貫かれたという認識だけがオレの足から力を奪い去っていく。膝から崩れ落ちた目の前には泣きそうなあの人の顔があった。両脇で名前を呼ぶ双子を認識出来ないあの人はオルシュファン卿の手を握って、一言でも一呼吸でも見逃すまいと息を殺して、乞われるまま下手くそな笑顔を見せる。

ああ、こんな顔をしていたんだ。

ずっと会いたかった、ずっと側にいたいと思っていた。たとえ記憶から作り出された幻でも嬉しいと思ってしまった。
「──重くなる手の感覚を忘れたくない」

ここはあの人があの人の意志で〈英雄〉へと成り果てた場所。

あたたかい記憶を埋めた、終局の一つ。

折れることのない刃を携えた瞬間だ。
「……アルフィノ、アリゼー」

クリスタリウムの子どもたちにそうしたように、今ひとたび立ち上がるために双子の肩を抱く。静かに強張った笑顔を頬に貼り付けたまま、しかし瞳には強すぎるほどの光を灯すあの人を二人は見ていた。呼びかけると、それぞれがそれぞれらしく頷き、賢人らしい顔を見せてくれる。いつの間にか意識を浮上させてきたクルルも隣りにいて、二人の背を撫でてくれていた。

じきに二人は立ち上がり、竜詩の一節から少し距離を取ることにした。ここで観たものを整頓し、次の──最後の潜航のために考えをまとめる必要がある。
「……クルルさん、この記憶はオルシュファン卿との思い出を封じ込めようとしてしまった結果ではないかな……」
「もう二度と思い出したくなかったってこと……?」

考えうる限りの答えを否定されてほしくて、しかし不安げな二人にクルルは首を横に振る。
「後悔していても、変えられなくても、深い傷になっていたとしても。忘れたくない想いだったから。色褪せることのないように置いておきたかったのだと思う」

クルルはさっきまで自分がふれていた感情を思い出すように、胸に抱いた紀行録を撫でていた。大丈夫だ、と諭すような手当てはきっとあの人の体にも繋がっているだろう。
「本当に、不器用なんだから。忘れたくないなら話せばいいのよ、何度だって」
「ああ、本当にな」

くすくす、と本人が聞こえる状態でないことを良いことに笑うみんなの表情や視線はあたたかい。戦は滅法強くてどんなに小さな機微すら見逃すことがないのに、自分のことになると途端に不器用で鈍くなる。そんなあの人の一面によって作り出された世界にいるのだ、とオレたちは誰に言われるでもなく感じ取っていた。
「不器用といえばさ。もしかして記憶を仕舞おうとして、うっかり全部落としてしまったとか。どうだろう?」
「複雑な術式はあまり得意ではなかったと常々漏らしていたからね……それはあり得るかもしれない」
「なら、その落っことした記憶を丸ごと浮上させれば良いのね!」
「ええ、きっと。私たちと同じような膨大な記憶の塊になっているはずだから、ここにいるあの人とは違って意思疎通が出来るとは思うのだけれど……」

振り向くと、友の手を握って俯くあの人と側に寄り添う騎士たちは時が止まったように、あるいは動力を失った魔法人形のように静止したままそこにいた。ここに置いていかれた記憶をすべて観たということだろう。
「あのさ、さっきあの人と目が合った気がするんだ」

きっと次に至る場所に答えがあるはずだと信じて、クルルが紀行録のページをめくる手を見守る。涙一つ見せないあの人を背に、オレたちは再び記憶の海を潜り始めた。深く、ふかく。