騒乱
空の色は燃えるような赤。
メーガドゥータ宮前で始まってしまった騒乱は、まるで池に石を放り投げた時に生じる波紋のようにラザハンに広がりつつある。得体のしれない獣に怯え、逃げようとする人々の間を駆け抜け、転ぶ背中に手と言葉を貸し、ついさっきまで友だった者に振り降ろされる爪を弾き飛ばしてはまた駆ける。
白い光に塗り潰されていた彼の地とは真逆の色だというのに、ここには同じ声が響いていた。
「決して一人になるな! 今は振り返らず、前へ!」
死はいつだって傍らに並び立っている親しい隣人だ。それは誰にとっても、それこそ稀代の英雄であっても変わらない。不安、哀傷、絶望。足元の地盤が不意になくなり、全てが失われてしまったかのような暗闇が人々を押し潰そうとしている。
私は知っている。
変わらない日々、日常の中で生きていた人々にとって、この状況がいかに耐え難いものかを。そう、耐えきれずに押し潰されそうになる時があってもいい。だが、絶望の底に横たわったなら、次は胸を張って前を向いて歩き出すしかない。
「痛っ」
「おっと……!」
「っうわぁ!!」
取り残された人がいないか覗き込んだ路地から背の高い影が飛び出してきた。咄嗟にエーテルの剣と盾を霧散させながら数歩下がりつつ、自分より大きな体を受け止める。だが、随分と怖い思いをしてきたのだろう、腕に添わせた手は思いきり弾き飛ばされてしまった。怯える目はオレを見ていない。ああ、これも私はよく知っている。罪喰いから逃げおおせた子たちが初めてクリスタリウムに連れてこられた時、こういう目をしていたものだ。
しっかりと目線を合わせるために少し背伸びをして鱗が散っている頬に手を滑らせる。必死に走り回っていたのだろう、今にも破裂しそうな荒い息を繰り返すアウラ・レン族の商人の涙に濡れた翡翠色の目がようやく私を捉えてくれた。
「大丈夫、助けに来たんだ。落ち着いて」
「あ、どう、どうしよう! 娘がいないんだ!」
「子どもとはぐれてしまったのか。分かった、オレが探してくる」
ガタガタと震える体をそうっと抱き寄せ、背中を擦ってゆっくり呼吸をさせる。服についた香水の匂いだろうか、焼け焦げるものや爆ぜるエーテルに混じってほのかに立つ花の香りと、丁度彼の胸のあたりに当たっている耳から伝わってくる心音にオレも少し気持ちを落ち着かせてもらえた。異国の花の香りは何故か懐かしい故郷の風景を思い起こさせる。
呼吸が落ち着いた頃合いを見計らって体を離すと、通りの向こうから走ってくる人が見えた。手を振って呼び止めるとこちらに気付いて駆け寄ってきてくれた星戦士団の戦士はところどころ肌が焼けていて、ついさっきまで戦線に立ってくれていたのだろうことが分かる。
「大丈夫かい!? 怪我か!?」
「落ち着いて、怪我はないようだ。彼と一緒に建物の中へ。頼む」
まだ立ち上がることは出来ない彼を戦士に預け、自分は再びエーテルで剣と盾を形作った。もう幾度編んだか数えきれない武具だというのに、その重みを背負う度に胸の奥にすっと風が通るような心地がする。
「ああ、勿論だけど……あんちゃんは?」
「彼の娘と、他にはぐれた人がいないか見てくる」
「あ、あんた! 駄目だ、あんな恐ろしいやつらと戦うなんて!」
「……安心してくれ、これでも結構な場数を踏んでいるのだ」
呆気にとられる二人の肩にそれぞれ手を置いて、淡い光を灯す。黎明の始まりよりか細いエーテルの光はないよりはまし程度のものだろうが、あと少しだけ駆ける分には足りてくれるだろう。
「決して一人になってはいけない、振り返ってもいけない。あんたたちは頼もしい星戦士団とオレの仲間が必ず護る、だから不安に思っている人を見つけたら一緒にいてやってくれ」
そして、頬に赤みが戻った商人に一つ頷いてから行くべき道を指し示す。
「さあ、行って」
戦士が商人の肩を支えて立ち上がり、燃える空の下を二人で走っていく。二人が角を曲がって見えなくなるまでオレは遠ざかっていく背中を見ていた。どうか無事に生き延びて、ラザハンを──本当の意味で竜とヒトが共に歩み出した彼らの故郷を見届けられるように、居もしない神にひととき祈りを捧げる。
どうか彼らにクリスタルの導きがあらんことを。
この詞を懐うたび、あの人の背中を思い出す。熱を増すばかりの空の下、最前線を駆けているだろう煌きを追ってオレも再び走り出した。
空の色は濃い青色の絵の具で塗り潰したような青。
通り雨が去った後、湿度を含んだ何とも言えない風で近東らしい極彩色の飾りが揺れていた。蒸すような暑さの中では生ぬるい風は意味をなさず、ストールを取って上着を脱いでも北洋の涼しさに親しんだ体は耐えきれずに滝のような汗が顎を伝う。タオルもとうに湿り気を帯びてしまい、行儀の悪さは承知でシャツの裾を引っ張って拭っているが、それでも汗は留まるところを知らず流れ続けていた。代謝の良い体というのもこういう時は堪らない。なんて贅沢な悩みなのだろう、とむずつく口角を誤魔化すようにエーテライトプラザをぐるりと見回す。
行き交う商人や錬金術師で活気づく街には、忙しなさと共にのんびりとした長閑な空気が同居している。悲鳴の代わりに新たな竜詩を下地にした人々の喧騒が高く高く響いていた。文字通り七大天竜の一翼の膝元、初めから心配はしていなかったが、人々の逞しい営みを目にするとやはり安堵を覚える。
だが、ただ一つだけ引っかかることがあった。あの人との旅の折、あるいはエスティニアンを訪ねるためにラザハンに足を運ぶ度、空が燃えた日に星戦士団へ預けた商人の男の姿を探していることに気付く。
あの騒乱の最中、商人の娘らしき子どもは見つけることが出来なかった。正確には子どもは何人か保護したものの、探し人がいたか確認する前に暁のみんなと合流したのだ。結局、今日に至るまで商人とも再会出来ておらず、彼が無事に家族と新しい日々を過ごせているのかすら分からずじまい。中途半端になってしまったことが気にならないはずなかった。
真眼門からラザハンに入って待ち合わせ場所であるエーテライトプラザに至るまでの道すがら、人に訊いて回ったりはしたものの収穫はない。もう少し聞き込みをして回りたいけれど、もうじきあの人との約束の時間だ。本当に万策尽きたらあの人に相談してみようか、と悩みだしたところであの人の声が人波の向こうから聞こえてくる。
「グ・ラハ、お待たせ」
何故か背後を振り返ってオレを指さしているところを見るに、またお使いか人助けを買ってきたのだろうことを察する。流石、最強の英雄。一歩外を歩けば課題や問題があちらから飛び込んでくるとの自称は伊達ではないようだ。声をかけようとした呼吸は、だが一瞬止まる。あの人の影からひょこりと顔を出したのが、オレがずっと探していた終末の時の商人だったのだ。思わず駆け寄ると商人の方もあの人の後ろから飛び出して、あの時オレがそうしたように、肩をしっかりと抱きとめてくれた。
「終末の……!」
「ああ、やっぱりあんただ!」
喜びをそのまま表すように、商人はオレを抱いたままその場で跳ねる。流石に驚いて尻尾も耳も膨らんでしまったが、嬉しいのはオレも同じだ。肩越しにあの人が珍しく大笑いしていることも相まって、たくさんの人で行き交うエーテライトプラザの衆目を集めていたとしても今は気にならなかった。
満足して落ち着いた商人が気恥ずかしげにオレを降ろしてくれたのは、騒ぎを聞きつけた商店街の商人たちまで通りから出てきてしまった頃だった。騒いでしまったことを謝りつつ、何でもないからと人を散らしてから人心地ついたところで、あの人が連れてきたもう一人の影にやっと気付く。まだ笑っているあの人の後ろに隠れていたのは白い鱗と翡翠の瞳を持った小さな女の子だった。
「よかった……娘さんも無事だったんだな。よかった……」
「ああ、必死に戦ってくれたあんたとあんたの仲間たちのお陰だ。本当に……本当にありがとう」
「お兄ちゃん、お父さんを助けてくれてありがとうございました!」
親子共々に深々と頭を下げられ、さらには娘さんからはきれいな紐飾りをもらってしまった。自分では何も出来なかったというのに。
「ラザハンに来る度、いつも以上にぼーっとしているから何かあったのかと思っていたけれど。こういうことだったんだな」
今度は親子二人の背中を見送っていると、あの人が喜色を孕んだ声と一緒に脇をつついてくる。
相談しようかと悩み始めてすぐ、まるで想うことで縁が結ばれたかのように、この人が探し人を連れてくるとは思いもしなかった。問えば曰く、オレとの待ち合わせの前にアルキミヤ製薬堂に届け物を配達しに行ったところ、英雄ではないかと親子から声をかけられたそうだ。
「英雄って立っているだけで目立つからさ」
二人から事情を聞けば、終末の折に暁の賢人らしき赤毛のミコッテ族に助けられたからお礼と無事を伝えたいと言うので、丁度会う約束をしていたエーテライトプラザまで連れてきたらしい。
「ここまで来る途中、助けてもらって感謝しているってずっと熱弁していたよ」
「感謝なんて……オレ、結局あの人の娘さんを見つけられなかったのにな……」
駆け出した時に取り落とした荷物を背負い直す。少し後ろで待っていてくれているあの人に向き直ると、いつになく静かな眼差しをオレに注いでいた。
「……あの終末で獣にならなかったのは、君にかけてもらった言葉のお陰だったって」
その言葉で踏み出しかけていた足が止まる。
いくつもの夜を越えるために捲り続けた本の中、英雄たちが活躍する物語を彩る言葉たち。己を、時に目の前の大切なものを鼓舞し、欲した結末を手繰り寄せた言葉たち。オレは与えられてばかりだったけれど、もしも彼らにも力を手渡すことが出来ていたのだとすれば、それはなんて嬉しいのだろう。
「よかったな」
「……ああ」
肩を叩いてくれたあの人の眼差しはあたたかい。改めて踏み出した足取りは軽かった。