東の雲に問う
全くの暗闇のただなかに彼は立っていた。
愛用の弓や肌身離さず身につけている道具一式も持っていない。それどころか、どうしてこんな場所にいるのか、今まで何をしていたのかすら覚えていない。割れるように痛む頭も、ふわふわと留まることなく溢れ続ける欠伸も、何より酷く胸が苦しい意味も。何もかも分からないが青年は持ち前の負けん気でとりあえず一足を踏み出してみる。すると、ピチャリと水音が響くと同時に淡い光が広がっていき、辺りを薄く照らし出してくれた。
彼が佇んでいたのは洞窟の水溜まり、その浅瀬だったらしい。気が付けば靴をしとど濡らしていた水溜まりをザブザブ歩いて、小高くなった岩肌の上にひとまず避難した彼は自分の置かれた状況を一旦整頓することにした。元々地頭の良い人物である青年はたとえ不測の事態に見舞われても、たった今自身が蹴散らした水面のように波立つことはない。
青年がいるのは地下洞窟の行き止まりの部屋のようだった。隅の方に主を失くした木の小舟がぽつねんと横たわっている他に人工物の影はない。水面の方に目を遣ると、水脈があるのか滾々と湧いては流れていく水の流れは部屋の外へ出ていっており、行き先は暗くて夜目の利く彼をしても見通すことは出来ない。
さて、どうするべきか。
ひどくそそられる冒険の匂いに誘われた青年は考えるより前に小舟に乗り込んだ。前の持ち主が大切に使っていたお陰だろう、舟はかなり年季が入っていたが穴一つなく、さらに櫂とランタンまで備えられていた。古い木の小舟は青年の良き旅の仲間になってくれそうだ。ランタンを帆先に取り付け、初歩的な魔法で火を点けた青年は、いざ舟を漕いでスイスイと洞窟の中の川を進んでいく。
灯りがほとんどない中、どれほどの時間が経ったのだろう。慣れないとはいえ櫂を少し漕いだだけなのに、青年は息が上がり始めていた。このくらいの軽い運動で疲れるほど、やわではなかったはずなのに。もしかしてここ最近の夜更かしと冒険が響いているのかな、と思い至ったところで青年はふと手を止めた。
夜更かしと冒険。
そうだった、物語のような冒険をしたのだ。それも、最近話題の凄腕冒険者と一緒に。まるで昨日のことのように鮮やかに思い出せる、憧れの英雄との短い旅路だ。想いを馳せるだけで胸が熱くなる凛々しい横顔や激しい剣戟の音を彼はきっと一生忘れないだろう。それにしても何故、昨日のことのようになんて思ったのか。実際、昨日の話なのだから覚えていて当たり前なのに。
寝起きのように靄がかった自身に段々不安が募ってきた彼は暗い想像を振り払うように櫂を力いっぱい漕ぎ出そうとした。だが、ガツンと何かに引っかかってしまったように動かない。そんなに広くもない洞窟だ、浅瀬に乗り上げてしまったのかと彼は水面を覗き込んだ。すると、その時を待っていた無数の手が水底から伸びてくる。
突然のことに自慢の尻尾は膨らみ、声もなく舟に尻もちをついた青年を追いかけてきた大小さまざまな手は、水しぶきを上げて小舟の縁に指をかけた。
このままでは転覆してしまう。慌てて追い払おうと櫂を振り上げたが、しかしそれは宙で行き場をなくしてしまった。舟を掴んだ手たちの力は下ではなく、舟の帆先の方向へと向けられている。無数の手は舟に勢いをつけるように前へ前へと押していたのだ。
青年にその手の正体は分かりえない。どんな意図を持って舟を押しているのか、もしかしたら行き先は彼にとって危険な場所なのかもしれない。自身が何処へ行こうとしていたのかすらまだ思い出せないのに、しかし青年には手が導く先に自分が求めるものがあるような予感がしていた。
手に押される勢いを殺さないように無心で舟を漕いで、漕いで、漕いで。やがて岩ばかりだった景色に変化が訪れる。壁面だけでなく底面にも淡い光をたたえた石が整然と敷き詰められた、明らかに人の手が入った場所に至った。この石材は青年にとって馴染み深いものだ。
「……アラグの遺跡だったのか」
洞窟というよりは水路と呼ぶべき道に入ってしばらく。たまに道が別れているが青年と小舟は水の流れに従って進んでいく。時折頭上から地上の光が差し込む地点があり、光と一緒に人の声のようなささめきが降り注いできていた。洞窟は街の下を流れる水路に流れ込んでいるのか、と青年は自身が住んでいた都市の下に広がる地下空洞を思い出した。
整然としているようで入り組んだ迷宮のような地下倉庫は世界各地から持ち込まれた生き物で満ち溢れてたが、この地下水道には静謐と懐かしいエーテルに充たされている。ふう、と一つ大きく深呼吸するとより感じるエーテルの親和性の高さは彼の身に流れる旧い血の影響だろう。めいっぱい舟を漕いで疲れていた体にじんわりと活力が戻ってくる感覚を青年は櫂を握る手の平から感じていた。
人の声や外の光が見え始めてしばらく漕いだ頃、舟の前方にやわらかい光が射してくる。水路の出口が近いらしい。さあ、もうひと踏ん張りだ、と青年はマメが出来かけている手に力を込めて漕ぎ出せば、ゆるやかな風が耳や髪を揺らし、じんわりと顎を伝う汗を冷してくれる。
舟は狭い石造りの道を抜け、次に現れた大きな木の枝の下を潜り抜けていよいよ背の高い木々が茂る広い場所に辿り着いた。すぐ前方には水路の終わりと小さな桟橋がある。舟で進めるのはここまでらしい。随分と慣れた櫂捌きで小舟をぶつけることなく桟橋につけ、手早くロープで舟をくくりつける。ひとときの旅の仲間であった小舟を一度撫でてここまで連れてきてくれた労をねぎらい、青年は舟を降りて簡易的に取り付けられた桟橋に足を落ち着けた。
さて、ここはどこだろう。
改めて辺りを見回しながら歩を進めると、図鑑でもラヴィリンソスでも見たことのない不思議な光を滲ませる木や植物が所狭しと並べられていた。そこかしこに置かれた机や実験器具を見るに、研究施設あるいは植物園だろうか。アラグの関連施設なら青年も読み取れるものがあるだろうが、書面に書きつけられた文字はアラグの時代のものですらなく、何一つ理解が出来ない。未知の文化に青年の心が躍動し始めるのにそう時間は要さなかった。
そして青年は一際目を引く大きな樹の下に人影を見つける。薄い色の花をたくさんつけた枝が垂れてその姿を隠しており、青年のいる位置から性別や種族までは分からない。
「遅かったな」
青年がその人を見つけたとほぼ同時に人影が振り向いて、声をかけてくる。花々の向こうから歩み出てきたその人は壮厳な細工が施された魔道士のようなローブを纏う人だった。目深に被ったフードで表情は見えないが、わずかに覗く口元と声音とに喜色が滲んでいる。
「お前が来る時をずっと待っていた」
「オレを……? あんた、一体何者なんだ?」
ゆったりとした語り口はまるで旧友に向けるようなやわらかさで、親しい友人である印象すら感じさせる。しかし人相は見えないくせに、ところどころ垣間見える体が結晶化していて怪しさしか感じない見た目。普段の青年なら警戒心を解くことはないだろう。しかし二十と少しという短い人生の中で得た知識と経験によってもたらされた勘は、止まってしまった足を一歩ずつ前に進むことを許した。
青年の問いには沈黙を促す仕草で返したローブの人は、ぐっと視線を上に向ける。うっかりフードの中身が見えるか、と青年は窺ったが魔法か何かで視野が撹乱されているらしい。フードの中身は真っ暗な闇が見えるばかりだった。
「今が丁度花の盛りだ、美しいだろう? 研究員たちが代々育ててきた樹だ」
「研究員……ってことは、ここはアラグ関連の研究施設か?」
「いいや。ただの街だよ……懸命に生きようと藻掻く人々が集う都市だ」
ス、と青年が乗ってきた小舟を指さしたローブの人はその指を水路の奥、そして地下の方へと滑らせる。その指先は青年が辿ってきた道筋を遡っていった。
「お前は地下の水脈から上ってきたのだろう? 途中、外光が射す場所があったはすだ。ここは街の地下にあたる」
何かを懐うようにローブの人は青年に正面から向き直る。丁度青年と同じくらいの背格好のその人は深緑の向こうからそそぐ陽射しのような声音で青年へ言葉を手渡した。
「ようこそ、クリスタリウムへ」
「こちらへ」
ローブの人は静かにそう言い残し、青年が後を追ってこないとは微塵も考えていない足取りで自分はさっさと歩き出す。当然ながら制止の声をかける暇もなかったために、罠の可能性があったとしても青年は現状を知る唯一の手がかりについていくことしか出来なかった。
彼らはまるでチョコボの親子のように一列に並んで水路を跨ぐ橋を渡り、少しの階段を上って回廊を行く。すると、すぐに大きな扉が目の前に現れ、ローブの人が人一人が入れるだけの隙間をそうっと押し開いて中に体を差し入れた。ところが、ここに来て青年は不安に足を取られてしまう。なんとなく勘に従ってここまでついてきてしまったが、この扉の向こうも安全とは限らないのだ。
だが、そんな不安も魔道士にはお見通しだとばかりに少し口元をゆるめて、幼子を安心させるような一等やわらかい声音で青年を手招く。
「おいで。何も獲って食いやしないさ」
そうして、遠慮がちに開いていた扉を押して、存外慎重な青年のための中の様子が見えるよう大きく扉を開いてみせる。灯りで眩んだ青年の眼前が晴れると、一生かかっても読みきれないほど本が詰まった本棚が渦を巻き、高く積み上がる知恵の森が広がっていた。
「すっげー……!」
「この博物陳列館にはあらゆる書物や資料、人々が護ったこの世界の足跡が遺されているのだ。お前は好きだろう?」
ふらふらと惹きつけられるように進み出ていた青年にローブの人は満足げに微笑んでいる。何もかもお見通しだと言うような口振りに青年は流石にバツが悪くなって、本棚の天辺を捉えようと視線を高く逃してしまった。だが、そんな子どもじみた仕草も想定していたようにローブの人は止めていた歩みを進め、扉近くの本棚から一冊手に取る。慣れた仕草は本に親しむ人のそれだ。
「ここにあるのは一般的な書物だけではない。たとえば民が綴ったレシピや業務日報……生きた証はすべてここに収められている。勿論、ごく個人的なものは本人が許した場合だけだが」
本とは呼びがたい紐でくくっただけの紙の束をその人は宝物のように撫でる。ローブの裾を汚しながら歩き、ここに至るまでの足跡を懐かしむ眼差しは青年に歓迎の言葉を述べた瞬間に似ていた。
青年はそんな横顔を傍目に円状に立ち並んだ本棚の森に足を踏み入れていく。試しにどれか読んでみよう、と手を伸ばした一冊の背表紙には、自身の研究のためにさまざまな旧い言葉にふれてきた彼にとっても見慣れない言葉に彩られていた。その隣りもさらに周りの本も、どれだけ目を凝らしたとしても一文字すら読めない。
きっと只人なら自身の持つ常識がそこかしこに潜む違和感に足を引っ掛けられるこの場に強い不安、あるいは恐怖を感じてしまうだろう。しかし、青年はこの図書館に収められた本の山を一つとして読み解くことが出来ない悲しさと、世界にはまだこんなにも未知が溢れているのだという高揚感で尻尾を揺らす。言葉が読めずとも筆致や挿絵、紙面に残された全てが声高に物語を謳っていた。それは青年がこの場に至るまで手を引いていてくれた知の神の息吹を感じさせるもの、多少の差異はあろうと地続きに在る場所なのだと安心させるに足る。
「ああ、見つけた」
本棚を彷徨いていた青年の背後でローブの人が嬉しそうに声を上げる。その手には一冊の厚い本が携えられていた。興味を惹かれるものに囲まれてやや挙動不審気味になっていた青年は、手招きされるまま近付いていく。
「ほら、今のお前に必要だろう」
目深に被ったフードで視線が隠れているにも関わらず、魔道士が期待に満ちた眼差しを向けていることがまだ出会って間もない青年に伝わってくる。余程お気に入りの一冊なのだろうか、と青年は疑問を浮かべながら真紅の本を受け取った。
一見ただの手記にしか見えない本は懐かしい手ざわりをしていて、指先が表紙をなでる感触がローブの人の腕と似ているクリスタルに囲まれた土地の記憶を呼び起こす。この本は自分の、それも手元にはないはずの手記だ。
「これ、どうしてここにあるんだ……?」
「さあ、どうしてだろうな」
本から目が離せないまま、ローブの人に問いかけるがはぐらかされる。これ以上何かを問うても何一つ答えはないだろう。
青年は洞窟で気がついてからこっち、冴えたままの直感が今やるべきことに意識を向けさせた。
ページをめくり、見慣れた筆跡を辿る内に胸の奥に熱がふつふつと沸き上がってくる。青年が一族の求めた真実に至り、グ・ラハ・ティアとして深い──あるいは、ひとときの眠りについた瞬間の燃えるような願い。叶えられた悲願の先に自分は立っているのだという安堵。そして程なく辿り着いた記録の終わりには、一人の名前が記されていた。忘れられるはずのない、輝く希望の名。
眠りにつくその時までの記憶がグ・ラハの瞳の表層を濡らしていた。
帰らなければならない。
魔道士が手渡した本に記されていた記録はグ・ラハ・ティアに記憶を蘇らせ、同時に望郷の想いを強くさせた。だが、思い出した記憶の中に眠りから目覚めた瞬間はない。ならば何故、自分はここにいるのだろう。クリスタリウムとは何処なのだ。
湧き上がる衝動のまま、グ・ラハはまだ期待の眼差しを向けてきていたローブの人に向きなおり、疑問を投げかけようとした。
「水晶公!」
言葉が声になる既のところで、別の声に遮られてしまった。溌剌としたエレゼンの女性が布で包まれた何かを手に駆けてくるのを呼ばれた当人は微笑みをさらに深くして迎え、わざとらしく腰に手を当ててみせる。
「カットリス、博物陳列館で走ってはいけないよ」
魔道士──水晶公は大人相手にまるで子どもを叱るような物言いだが、カットリスと呼ばれた女性は気を悪くするどころか少し嬉しそうにして、逸る気持ちを押さえつけた大股で歩み寄ってきた。
「あら、初めて見るお連れさん。こんにちは、クリスタリウムにようこそ」
「こ、こんにちは」
「私の旧い知人だ。やさしくしてやってくれ」
「なるほど、この方も公の謎多きご友人ってわけですね……みんなにも伝えておきます。お連れさんの滞在が良いものになりますように」
すらすら、何度も口にした言葉を反芻するようなやり取りをグ・ラハは余所行きの笑みを貼り付けながらただ聞いていた。自分以外にも余所者を招き入れたことがあるのか、と少し驚いたが、他の謎多きご友人とやらがもし自身と同郷ならば帰る方法も分かるのではないかと考えつく。
「それで……私に用事があったのだろうか?」
「ああ、そうだった。頼まれていた杖、出来ていますよ」
エレゼンの彼女が大きな手の中の布包みをするりと解くと、グ・ラハにとっても馴染み深い碧色のクリスタルが嵌め込まれた杖が一本現れる。柄の部分は細身で握りやすさを、随所に見られるあしらいがエーテルコントロールの指向性を考慮されているように見え、現代の魔杖に関しては素人のグ・ラハでも逸品であることが伺い知れた。杖を受け取った水晶公も手に馴染むそれに満足そうな笑みを浮かべ、カットリスへ大きく頷く。
「ありがとう……良く出来ている。流石、ミーンの職人たちだ」
「公直々のお仕事ですからね! みんな、力が入りすぎなくらい頑張らせてもらいましたよ」
水晶公の反応でカットリスは安堵の息を吐いた。博物陳列館の薄暗さで分かりにくくなっているが、目元には淡いクマが居座っている。水晶公は口元をまごつかせ、そしてめいっぱいやさしい笑みを見せた。
「どうやら無理をさせてしまったらしい。皆には礼と、よく休むように伝えておくれ」
「公からのご伝言なんて聞いた日には眠気も吹っ飛びます。じゃあ、早速戻らせてもらいますね」
丁寧なお辞儀を水晶公だけでなくグ・ラハにも寄越した職人は跳ねるように駆けて出て行った。
「お転婆なのはいつまでも変わらないな、あの子は」
誰に同意を求めるでもなく、水晶公は腕に抱いた魔杖に視線を下ろす。彼が発注したものらしいことは職人との会話でグ・ラハも知るところとなっていた。魔術を扱う者のローブを着ているのに杖を持っていなかったのは作っているところだったからか、と杖を愛おしそうに眺める魔術士をグ・ラハが眺めていると、水晶公は青年に杖を押し付けてくる。
「これを持っておいておくれ」
「オレ、あんたの荷物持ちじゃねーんだけど」
「お前のためのものだからだ」
不貞腐れて頬を膨らませるグ・ラハに呆れて溜め息をつく、そんな仕草にも水晶公が彼へ向けるあたたかい想いが透けていた。手のかかる子だ、と垂れ下がった包みをも腕の中に押し込んで満足気にしているローブの人へグ・ラハは少しの焦りを滲ませながら疑問をぶつける。
「なあ、さっき話していた友人たちって、まだ街にいるのか?」
「いいや、彼らはもう在るべき場所へ戻った……話したかったのか?」
こくこく、と頷くグ・ラハに水晶公は考え込むように口元を少し隠す。
「……今すぐには難しいだろう。だが、近い内に会えるさ」
はぐらかされた、と感じたグ・ラハが少しだけむっとして、さらに踏み込んだ言葉を投げる。
「あと、オレはモードゥナってところに居たんだけど、ここって」
「……ふむ、やっぱり若いな……」
水晶公は口元に置いた碧色の指先に漏れ出る笑みを含ませていた。余裕たっぷりな態度はグ・ラハの焦りを増長させるものだったが、ローブで隠せない表情はやわらかく、凪いだ水面のようだ。
「その答えはじきに分かるだろう。順を追って説明するから着いてくるといい」
着いてこないとは微塵も思っていない潔さでさっさと歩き出した水晶公の背中を見据え、グ・ラハはやはり怪しさこそ感じるが悪い人物とは思えなかった。その感覚の答えもいずれ分かるのだろう、グ・ラハは深呼吸を一つしてから抱えたままだった杖を右手に持ち替えて、水晶公の後を追った。
二人は連れ立って博物陳列館を出て、グ・ラハが舟で通った水路を横目に真っ直ぐ進む。ゆるやかな傾斜を登り、地下から外へ出ると一瞬、外の光に目が眩んだ。硝子が嵌め込まれた天蓋を透かしても余りあるほどの強さで昼下がりの太陽が辺りを照らし、命を育んでいる。好い日和だ。
ぐるり、と初めて訪れた街を見渡したグ・ラハが不意に懐かしいまたたきを目の端に捉える。見上げたそこには確かに自分がその機能を封じたはずの水晶の塔が佇んでいた。
「シルクスの塔……!?」
青年は混乱の局地に陥った。確かに封印を施した記憶はある。閉じる扉の隙間から見たあの人の顔を忘れるはずがない。しかし、依然として目覚めた記憶は思い出せず、自分がここに居る経緯も分からないままだ。
「なあ、もしかしてあんたが封印を解いたのか? だからオレはここにいるのか?」
「……この街はお前が眠りについた場所ではない。しかし、あれはグ・ラハ・ティアが封じた塔そのものだ」
焦りに身を任せた言葉を垂れ流すグ・ラハとは対象的に、滔々と言葉を紡ぐ水晶公もまたシルクスの塔を見上げている。フードで眼差しは見えないのに、隣りで塔を見ているこの人物が抱える想いの複雑さを、揺れる瞳を見た気がした。
「少し寄り道をしよう」
「水晶公、ようこそいらっしゃいました」
自分の知る場所ではないのに因縁しかない塔を目の当たりにしたせいで混乱が薄れないグ・ラハを連れて、水晶公は街の奥まった場所に対で建てられた建物へ歩いてきた。二人に気付くと、受付から感じの良いエレゼンの男性が訪問者を迎える。馴染みの水晶公には勿論、初めて会うグ・ラハにも自然な笑みを向け、歓迎の意を示してくれた。
「いつものお部屋にご用事でしょうか?」
「ああ、鍵を借りられるだろうか?」
「勿論です。お連れ様も、どうぞごゆっくり」
何度と繰り返した遣り取りなのだろう、慣れた様子で二人は鍵の受け渡しを済ませ、水晶公は階上へと進み入っていく。まさか待っていろとは言わないだろうが、さっきまでの混乱で水晶公という謎の人を信用しにくくなっていたグ・ラハは受付から動けずにいた。そんな様子を見ていた受付のエレゼンはグ・ラハへゆっくりと一つ頷いて、やわらかい仕草で上階への階段を勧めてくれる。
この街に来てからグ・ラハは不思議な感覚に襲われることばかりだ。
明らかに怪しい水晶公、博物陳列館に飛び込んてきた職人、そして受付のエレゼンにも何故かよく知っている旧友のような安心感があるのだ。だからだろう、グ・ラハは混乱で重くなっていた足を前へ進めることが出来た。きっと大丈夫だと、その身に流れる旧い血とその智慧が教えてくれるような感覚が青年を満たしている。
とぼとぼと階段を上がり、水晶公より少し遅れてグ・ラハは建物の一番上の階に辿り着いた。水晶公は魔法で動く小さな箒をいくつか取り出して、部屋のすみずみまで掃き掃除をさせている。本人は大きな窓を開いて空気の入れ替えをしていた。
「……すっげー広いな。あんたの部屋なのか?」
「いいや、大事な人のために用意している部屋だ」
「ふぅん」
青年は夕陽に染まりかけた空を眺めるローブの背中を見遣り、水晶公が言った言葉を反芻していた。
大事な人。それも広い部屋を用意して、甲斐甲斐しく掃除までするほどの。
「……なあ、そいつってあんたの恋人?」
「そ、ういう間柄ではない。全く、若いと何でも色恋にしたがるから困る……」
それまで諦観にも似た余裕で自らを覆っていた水晶公が明らかにギクシャクし出して、グ・ラハはおやと眉を上げる。恋愛の類でなくても、少なくとも水晶公にとって好ましい人であることは間違いないようだ。
まだ年若いグ・ラハは俄然面白くなってきて、ついに見つけたローブの綻びをつついてやろうと体のバネに物を言わせて一足飛びに魔道士の隣りまで近付く。
「その大事な人。いつ来るんだ?」
「……さあ。旅をしている人だから、帰るのは明日かもしれないし、数年後、数百年後かもしれない」
「数百年!? あんたもそいつもどれだけ長生きするつもりだよ!」
「ふふ、孫娘にも同じことを言われたよ」
孫とのひとときを懐かしむように水晶公はくつくつと笑っていた。グ・ラハが思うよりも、存外この謎多き魔道士は陽気でよく笑う人なのかもしれない。
「孫……あんた、やっぱり相当じいさんなわけ?」
「お前はどう思う?」
「……質問に質問で返すなっつーの」
またはぐらかされたグ・ラハは頬を膨らませて、不平を垂れる。そんな彼を見兼ねたのか、水晶公は窓の側に備えつけられていた椅子に腰掛け、懐から一冊の本を取り出した。
「……私はあの人を救うため、たくさんの人々の手を借りてここに至った。皆と街を一つ創り、時が来るのを待ち続けていたのだ」
小さな子どもに本を読み聞かせるかのように、老人は自然な流れで自身の隣りに青年を座らせると、表紙をグ・ラハに向けて差し出してくる。
「これを」
魔杖と引き換えに水晶公の手からグ・ラハへ渡された本日二冊目の本は表紙がところどころ擦り切れ、焼け跡や乾いた血の痕も見えるかなり年季の入った一冊だ。題名は読めない。元からないのかもしれない。グ・ラハは本の表紙に手をかけ、水晶公の様子を窺うと合うはずのない視線が合った気がした。
「……お前にとっては受け容れがたいことかもしれない。それでも、識るか?」
グ・ラハは賢人だ。自分のルーツを識るために古い文献の海を泳ぎ、ヒトの歴史から悪性とそれ以上の善性を身に受けてきた。今更尻込みすることはないはずだった。しかし、指先にふれる表紙の感触が引き返すなら今だと叫んでいる。こんなことは初めてだった。だからこそ、グ・ラハは水晶公を真っ直ぐ見据えて、そして表紙を開いたのだ。
それは炎の記憶だった。
記憶の背景は戦火に煽られ、留まることを知らないヒトの獣性であり、八度目の災いの果てだった。
誰もが悲しみと怒りに晒されて、それでもなお生き長らえている世界でその人は目覚めた。永い長い時を超えて、かつて冒険を共にした人々の子孫たちの手で揺り起こされた青年は悪い夢でも見ているのではないかと自身を疑い、それこそが都合の良い妄想だと肩を落とす。
だが、その肩を力強く叩いたのは彼を起こした人々だった。かつて英雄に救われ、その姿に想いを馳せた者たちの子孫だった。自分たちが駄目でも希望を繋ぐことが出来る可能性と手段があるなら、と道半ばで倒れた英雄を救おうと彼に持ちかけたのだ。そのために塔の封印をこじ開け、青年を舞台に引き上げたのだと。
まるで流星を掴むような途方もない計画だった。しかし、誰よりも強く憧れを救いたいと、その身にしか成せない役目を果たしたいと願ったのは彼だった。たとえ歴史を書き換えてでも、あるいは自身が悪になったとしても。
焦げた本を閉じたグ・ラハ・ティアは一つ、答えを得ていた。英雄譚になどなり得ない物語の語り部の正体、自身がここにいる意味。
「……すげー長い旅だったんだな」
ローブに加え、夕陽が逆光になっているせいで水晶公の表情はグ・ラハからよく見えない。
「行こう、じきに日が暮れてしまう」
やわらかい声音へこくり、と素直に頷いたグ・ラハは水晶公から魔杖を受け取り、本も抱えたまま部屋の出入り口へ足を向けた。先に出て施錠しようと構えている水晶公を待たせまいと早足で通り抜けたあの人の部屋に鈴の音がかすかに響いた気がして、グ・ラハは音の正体を見ようとしたが、しかし彼は振り向かなかった。一歩、前へ進み出た背後で扉が閉まる。
階下へ降りていく途中、水晶公とグ・ラハの間に会話はなかった。どちらもが次に交わすべき言葉を知っているからだ。受付に差し掛かり、来た時と同じように黙々と仕事をこなしていたエレゼンが一層やさしい笑みを二人に手渡してやっと水晶公が口を開いた。
「もうよろしいので?」
「ああ、いつも通り鍵は預かっていてくれ」
「承知しました」
軽く手を振ってその場を辞する水晶公に続いて、グ・ラハも丁寧にお辞儀をして受付のエレゼンに背を向けた。受付の仕事を長年勤めている彼は何度も繰り返した習慣の通り、遠くなっていく似た背格好の二人を送り出す。
「お二人とも、いってらっしゃいませ」
二人はエーテライトプラザにいた。雨風から守るためだろうか、エーテライトごと周囲をすっぽり覆い隠す屋根に囲まれた広場は街中を往来する結束点となっているらしく、一等人の往来が多い。グ・ラハにとって馴染み深いはずの大きなエーテライトは普段使っていたそれと少し異なり、まるでクリスタルタワーをそのまま削り出し、陽の光に晒し続けたような異様な光を帯びている。しかし、回り続ける機構の音に耳を傾けていると確かに自分の知っているものと同じらしいことが分かり、グ・ラハは目覚めてから一番気持ちが落ち着いたように感じた。
「さて、グ・ラハ・ティア」
エーテライトを見上げていた水晶公がいよいよグ・ラハに向き直る。
「ここまでクリスタリウムを歩き、見聞きして考え、お前が至った答えを聞かせてもらおう」
決して大きな声でもないのに、水晶公の問いかけは真っ直ぐとグ・ラハに届けられた。周りを歩く人々は二人を意に介さず、それぞれの営みを続けている。
「あんたは……うん……眠りから目覚めたオレだ」
グ・ラハもまた普段通り、張りのある声で水晶公に短い旅の答えを手渡した。水脈の側で目を覚ましてから魔道士に出会い、街を歩いた彼に不安や恐れはもうなくなっていた。
「英雄を、あの人を救った……第八霊災を知るグ・ラハ・ティアだ」
その言葉を待っていた水晶公は笑みを隠さず、自らのフードに手をかけてゆっくりと後ろに落とす。露わになった正体は鏡のようにグ・ラハと相対していた。
「改めて、クリスタリウムへようこそ」
毛先が白くなっていたり、表情の端々が少しやつれていたり、ここに至るまでの足跡の永さを感じさせるがグ・ラハは水晶公が自身とほとんど変わらない見た目だったことに酷く動揺していた。彼が若い見た目であることは、第八霊災を知るグ・ラハが起きてから程なくして長い時間を生きる決断をしたということの証左だからだ。もしも今の自分が同じ状況になったとして、同じ策を取れるか青年は腹の底が冷える心地を感じていた。
「何か勘違いしているようだが、私が経験した第八霊災をお前が知ることはないだろう。つまり、お前は人として歩み、終えることが出来るのだ」
「それは……つまり、第八霊災の先の人たちは……」
グ・ラハが自らの中に落とし込んだ記憶の風景は凄惨なものだった。だがそんな中でも懸命に生きようと藻掻き、道を作ってくれた仲間たちは笑顔で。彼らが報われないなんてことがあってはならない、と想う気持ちは魔道士が抱え続けてきたものなのだろう。露わになった眉間をギュッと寄せた水晶公は胸に手を当て、引き結んだ唇でゆったりと微笑んでみせた。
「私は信じている。彼らの世界にこそ希望はあるのだと。だからこそ、彼らの願いを手にここへ来たのだ……オレにしか出来ないことを成すために」
それは言祝ぎであり、願いであり、そう言い聞かせて何度も眠れない夜を過ごしてきたことをグ・ラハは最早語られずとも知っていた。
水晶公の役割を終えた今、繋がった命がもう一つの道筋にもたらした影響を垣間見る術はなく、今は無事を願い続けることしか出来ない。時空も時間も超えて英雄を救うことが出来たのだ、いつか彼らとの再会─あるいは出会いだって叶えてみせる。グ・ラハも水晶公と同じように胸に手を当てて、シルクスの塔を見上げた。
「でも、なんでオレとあんたが話せているんだ? クリスタリウムにオレがいるのは変だろ」
「そうだな……私もそこは疑問だったのだが……」
ふむ、と口元を手で覆って考え込み出した水晶公は、夕陽を受けて光るシルクスの塔を瞳に湛えてキラキラと淡く光る両目を真っ直ぐ見据えて彼の仮定を語る。
「……うん……恐らく、この瞬間は幻なのだろう。クリスタルが見せた夢に過ぎない」
幻、夢。
水晶公が言うことが正しく、またグ・ラハの認識が間違っていなければ、きっと体はまだ深い眠りの底にいるはずだ。覚醒する直前、記憶を込めたクリスタルが見せた夢の世界だからこそ、彼は二人として在ることが出来るのかもしれない。
「だが、私はこの時間をお前と過ごせたことを嬉しく思う。若人の、それも自分の門出を見送れるなんてそうそう出来るものじゃない」
そう言う水晶公の表情は晴れやかで、待ち侘びた瞬間を得たような満足感に満ちていた。不意にローブの胸元を握っていた水晶の手がグ・ラハへ伸ばされ、ピンと立った耳をひと撫でしていく。一瞬のことで抵抗すら出来ないなめらかな身のこなしは手慣れたもののそれで、今のグ・ラハならその理由も理解することが出来た。ただ、彼が手を伸ばした理由だけが分からず、我ながら老いとは不思議なものだ、と青年に一つ謎を残していく。
「……時間だ」
ゆっくりと一音ずつ水晶公が発する。
「いいか、一度しか言わない。よく聞くのだ」
じきに沈む太陽が今日の死に際の光でクリスタルを燃えるような橙色に染める。
「クリスタルタワー……シルクスの塔へ入り、螺旋階段を上れ。道はよく知っているだろう。塔の外には守衛がいるが、お前なら通してくれる」
その名の通り、水晶に覆われた指先が真っ直ぐに塔を指し示す。
「目指すべきは始皇帝の玉座ではなく、星見の間という場所だ。その部屋の奥に大鏡がある。そこまで行けば成すべきことが分かるはずだ」
グ・ラハから塔へ向き直り、その尖塔の先を見上げる。フードで隠されていない眼差しには焦がれるような熱がこもっていた。
「ああ、奥の扉は入らない方がいい。お前はきっと後悔する」
くつくつ喉で笑う魔道士は悪戯好きな好好爺然としていた。きっと好奇心旺盛な自分のことだ、こんなことを言われれば改めずにいられないことを知っているのに。
「何が起こっても振り返らず、立ち止まらずに駆け抜けるのだ。今度はお前自身の足で走って追いつけ。あの人の隣りへ、願い続けたいつかへ」
水晶公の視線はクリスタルタワーへ注がれ続けている。水晶公はグ・ラハに語りかけているようで、実際はその先にいる大事な人へも言葉を紡いでいた。次に会う時には姿が変わっているけれど、繋がっていることを覚えているために。
「なあ……ずっと、大切に抱えていてくれてありがとな」
一歩、二歩、進み出でてグ・ラハは水晶公と肩を並べる。
「オレはいつか、あんたにも追いついてみせるよ」
その言葉を聞いて目を丸くしたのは、これまで余裕を崩さなかった水晶公だ。思わずグ・ラハに向けた驚きの表情はやがてゆったりと瞑目して、ニッと満面の笑みに替わりグ・ラハの額を軽く小突く。
「……ふふ、百年早いな」
自分で乱した前髪をはたき直してやり、また塔を見遣る。今度はグ・ラハも共に天高く伸びるシルクスの塔を見ていた。
「さあ、行け!」
バシリ!と背を叩かれた勢いのまま駆け出したグ・ラハはまるで風のようだった。行き交う人の間を器用に擦り抜け、ぐんぐんと速度を上げていく。円蓋の座からほどない距離を若さに任せて全力疾走すれば、ほんの一瞬の出来事に終わる。
「兄ちゃん、走ると危ねぇよ!」
「公のお友達はせっかちさんが多いねぇ」
「気をつけて行きなよ!」
その一瞬の間でもたくさんかけられた言葉は呆れや心配、しかし何よりもあたたかい願いを乗せて、さらにグ・ラハの背中を押す。振り向かずに往って、そして生きてほしい。全てを推進力に変えてグ・ラハはひた走る。
水晶公が示してくれた道筋の通りにクリスタルタワー目指して大広場まで駆け出したグ・ラハはその勢いを殺すことなく大階段を駆け上がる。シルクスの塔の外には守衛が二人待ち構えていたが、走ってくる青年の姿を認めると何も言わずに塔に入れる扉を開いてくれた。
「ありがと!」
「あなたならいつでも」
「気をつけていってらっしゃい、おじいちゃん」
笑って見送ってくれる守衛を横目に青年は立ち止まらず扉を潜り抜けて、その身が持つ最後の記憶を標に階上へ向かう道を辿った。途中、青年自身が調査をしていた時代には決してなかった、壁をぶち抜く大穴には目をむいたが今は上に用がある。きっとまたいつか、今度は冒険支度を整えて訪れようと誓って青年は両翼に広がる階段を駆け上っていった。
絢爛豪華な内装に見下されながら螺旋階段を上っていくつかの踊り場を通り過ぎていく中、思い出すのは誰かの背中だ。目の前をひたすら走っていく姿はまるで夜の海の真ん中でも方角を知らせる星のように、ただ自らのために登り詰めていく気高い英雄。
青年は、否、水晶公として生きた彼はその役目の終わりを目前に憧れの英雄と塔を駆け上がったのだ。頬をあたたかい涙が伝うのはいつかの青年が感じた悔しさのためか、それとも水晶公の念願が叶った感慨からか最早判別なんてつかなかった。
一段ずつ階段を上る度、クリスタリウム──第一世界で〈 水晶公〉として生きた記憶が青年の中に浸透していく。彼はグ・ラハ・ティアであり、第八霊災を識るグ・ラハ・ティアであり、水晶公であった。ただの賢人としてシャーレアンで生きていたなら、バル島で研究に勤しんでいたなら起こり得なかった不思議な出来事に恐怖は感じていない。この先には必ず星がまたたいていると知っているからだ。
どれくらい駆けただろう。グ・ラハの無尽蔵に思える体力も底が見え始めた頃、見慣れた扉が現れた。街の民や暁の面々、時にはアシエン、そして英雄とのかけがえのない時間を何度も過ごした星見の間に歩み入る。
誰もいない部屋はがらんとしていて、いやに広く感じる。自分の足音だけが響く空間で誰に気遣うわけでもなく、つい慎重に足を運んで音を消そうとしてしまっていることに気付いた青年はくつくつと喉奥から笑みが漏れていた。真っ直ぐ部屋の奥へ進む、その前に塔に入る前の忠告を思い出した青年はその横手で固く口を閉じている扉へ歩み寄る。何かまずいものを入れていた記憶はないが、直近の記憶はまだぼやけていて部屋の様子はよく思い出せなかった。何かあれば現実でも対応しなければいけないから、念のためだ、と言い訳を重ねて青年は深慮の間へ続く扉を開く。そこには積み上げられていたり、若干雪崩を起こしていたり、机にも床にもひたすらに本、本、本。グ・ラハ・ティアにとってはこれ以上ない魅力的な空間が広がっていたのだ。年長者の言うことは素直に聞くべきだった、と青年は強く後悔する羽目になってしまった。ここにある本を持ち帰ることは叶わず、読みかけの本たちを読み切るほどの余裕もない。青年は仕方なく、ひどく後ろ髪引かれる想いを何とか断ち切って自身で創り上げた小さな楽園に別れを告げた。
誘惑する扉を締め切り、一つ深呼吸をした青年はようやく風のない水面のように静かな大鏡を前にする。
その人は記憶の中の魔道士の姿をなぞるように、杖で床を数度叩いた。ひと呼吸、ふた呼吸。音が術式を星見の間から塔へと運ぶように、ノックに呼応したエーテルが大鏡の表面を揺らし、じわじわと光を湛え始める。今度はここを通ることが出来る、そう確信した青年はやがて溢れ出た光に身を任せた。目を焼かんばかりの光は星空と青年を包み込み、始まりと同じようにゆっくりと収束する頃には星空のみがその場に残されていた。
熱い。
青年の体に感覚がじんわりと戻ってきて初めて感じたのは、誰かの熱だった。目蓋を押し上げようにも重くて重くて仕方がない。まだもう少し微睡んでいたいと甘えたくなる陽だまりの中で彼は目覚めた。
いつまでそうしているつもりだ、と誰かに叱られた気がして、しかし彼はゆっくり目蓋を震わせてその紅い瞳に光を取り込む。初めに見えたのはぼんやりと焦点の合わない碧い空間。やがて像を結んだ視界で捉えたのは見慣れた星々、そして自身に影を落とす存在だ。
その人の眼差しを受けたグ・ラハは掠れた呼吸した発せられない喉に、指先を動かすことも出来ない体にもどかしさを覚えた。だが、それすら全て抱え込むようにその人はグ・ラハへ抱擁を贈る。再会の歓び、目覚めへの安堵、綯い交ぜになった感情ごと抱き締める力は決して弱いはずがなかった。
一筋、もう一筋と流れ星が星見の間を駆ける。
「おはよう、グ・ラハ・ティア」