たくさんお食べ

※冒険者はアウラ・ゼラの男性です。

ファイアシャードが弾ける特有の音で俺は記録を書きつけていた冊子から顔を上げた。本日三種類目のパンをオーブンから取り出すと、ふっくらとした膨らみから湯気と芳しい香りが上り立つ。なかなか良い出来だ。続けて新しい種をオーブンに入れて、また冊子に向き合う。すると、遠くから重さの異なる足音が近付いてくる気配を感じた。

そろそろ誘い出されてくる頃だろうと思っていたが、なかなか大所帯でのお越しらしい。
「あっ! やっぱり、あなただったのね」

ひょっこりと戸口から顔を出したのは、アリゼーとグ・ラハだ。少し遅れてアルフィノとエスティニアンも連れ立って入ってきて、石の家の広いキッチンでも少し手狭なほどになってしまった。
「これ全部あんたが焼いたのか? 広間にいても分かるくらいすっげー良い匂いだった!」

グ・ラハが言葉以上によく語る耳をしきりに羽ばたかせて、机に並べた試作品のパンを眺めては感嘆の声を漏らしている。彼と肩を並べるアリゼー、そして彼らの頭上から覗き込むエスティニアンも「ほう」とか「ふむ」とか良い反応をしてくれていた。
「すまないね、大人数で押しかけてしまって」
「いいや、丁度試食役がほしかったんだ」

こんな時にも彼らしい気遣いの言葉をかけてくれたアルフィノ、次いでグ・ラハに皿を手渡すと、至上の宝でも手に入った瞬間のように堪らない熱に満ちた紅い瞳が俺を見上げてくる。
「いいのか……?」
「ああ、たくさん食べて感想聞かせてくれよ」

ピョン!とその場で跳ねたグ・ラハは早速一番近くにあったアップランド小麦のパンを恐るおそる手に取り、また俺をじっと見つめてくる。召し上がれ、の合図に大きく頷いてみせればやっとかぶりついてくれた。みるみる内に驚きが混ざった笑顔になって、二口目以降はめいっぱい頬を膨らませて気持ちの良い食べっぷりを見せる。

グ・ラハの直ぐ側にいたアリゼーにも彼女が好きそうな一つを皿に乗せて渡せば、少し気恥ずかしそうにしながらも素直に受け取ってくれた。
「このパイ、サクサクで美味しいぞ!」
「こっちの丸いパンは中がふわふわよ、ラハも食べて」

食べ比べを楽しむグ・ラハとアリゼーの傍らに紅茶のカップをそっと置いて、二人よりはゆっくり食べているアルフィノとエスティニアンにも飲み物を勧めると薄氷のような瞳がスッと細められる。そんなにパンが気に入ったのか、それとも紅茶が好きだったのか。
「分かってはいたが、本当に器用だな」
「褒めてもパンしか出ないぞ」

確かに、といつものように鼻を鳴らすエスティニアンもカップに口をつける。ふと口元が和らいだのは茶の味に覚えがあったからだと嬉しい。
「それにしても、どうしてこんなにパンを焼いたんだい?」
「お節介焼きでお人好しの相棒のことだ。何かの依頼か何かか」

アルフィノがバクラヴァを一切れ口に運びつつ、首を傾げる。隠すつもりもない事情をわざと仕舞い込むことはせず、俺は素直に何の裏もないことを仕草でも知らせた。
「依頼ではないんだけど……強いて言えば、今後のためかな」

不意に食べ比べをしていた二人の手が迷い出したのが目に入って、赤毛には今日一番の出来だった黒麦のパンを、銀糸の君にはアーモンドを載せた三日月型のパンをそれぞれ手に持った皿へ載せてやった。
「東方には『腹が減っては戦は出来ぬ』って言葉があってさ。何をするにしても食は大切だぜってこと」

さらに華やいだ二人の表情に自分の頬もゆるんでいくのを感じる。美味しそうに食べてくれる人を眺めているだけで自分は胸がいっぱいになってしまう、この想いこそが俺を奮い立たせるものの一つなのだろう。
「固いパンなら保存も利くし、ある程度日持ちもする。忙しくなった時のためにレシピ開発しておこうと思ってな」

話しながらみんなの皿にパンと手製のバター、ジャムを載せていく。すぐに皿の上が空になるグ・ラハのお陰でパンを運ぶ右手が常に忙しく、気もそぞろだったがアルフィノの形容しがたい絶妙な笑みには気が付いた。笑うべきか呆れるべきか、あるいは何か別のものとの間を迷っているようだ。
「……それだけという顔ではないね」
「…………どうして?」

腹の底にヒュッと風が吹いた。黙ってナイツブレッドを咀嚼しているエスティニアンの視線が気になる。
「ずっと側で見ていたらからね、何か隠したい時の癖はよく知っているよ」
「参ったな」

つい角をカリカリと掻く。アルフィノの言葉には悪意などなく、仲間の新しい一面を知りたいという好奇心と親愛に満ちていた。だからこそ突っぱねることが出来ない。もしアルフィノの隣りで紅茶をすすっているエスティニアンに同じことを言われても素直に答えることはなかっただろう。だが、奸計と戦略の只中を駆ける冒険者であっても学士殿の前では型なしにならざるをえない。

諦めを込めた溜め息は味見したラノシアオレンジの酸味が乗っていた。
「……いっぱい」

テーブルの向こう側に居るアリゼーはまだグ・ラハと楽しげに食べ比べしている。今なら聞こえない、今ならアルフィノとエスティニアンにしか聞こえない。
「いっぱい食べてほしくて……」

こんな時ばかりお喋りの隙間を縫った言葉が響いてしまい、一番聞かれたくなかった男の耳がこちらを向く。目をこれ以上なく見開いたグ・ラハと視線が合ってしまう、その前に顔を伏せて視界をパンでいっぱいにした。だが、そんな小細工は行動力に満ちている彼の前では無駄な足掻きだ。やや躊躇ってから皿をテーブルに置いたグ・ラハはすごい勢いで俺の目の前まですっ飛んできた。テーブルを飛び越えてこなかっただけ冷静さは残っているらしい。
「オレ、もうあんたの飯なしじゃ生きていけない」

パンの食べ残しを頬やスカーフにくっつけたグ・ラハの声は切実そのものだった。それがさらに胸を締め付ける。自由に生きる彼の枷になりたくないのにあの眼差しが俺を射抜く度、楽しげな姿を見せる度、もっと応えたくなる。
「だから、おかわり……まだあるか?」

本人よりも雄弁な紅い耳がへたりとしなだれていた。本心では不安なんて微塵も感じていないくせに、と少しの恨みを込めて心持ち強めに口元を拭ってやる。しかし、きっと眼差しは誤魔化せていないだろう。
「もちろん。たくさん食べてくれ」

紅い瞳が嬉しそうに煌めくのを見て、ピクシーアップルのジャムを作り置いていたことを思い出した。キラキラと輝いて甘い幸せと彩りをくれる甘いジャム。追加のパンにつけて出せば、きっとグ・ラハは喜んでくれるだろうか。その瞬間を想って、貯蓄棚へ足を向けた。道すがら、目を合わせるなり珍しく声を上げて笑ったエスティニアンに肩を叩かれる。俺は一体どんな顔をしていたのだろう。