円の園
真円がぷかりと空に浮いている。既に議論好きの市民たちすら家路に就いてしまっており、アーモロートはひっそりと微睡み始める時分だ。
人民管理局から歩み出てきた人影がやさしくも目映い光を見上げ、目を細める。上を向いた拍子にフードから垣間見えた燃えるような真紅の髪が月明かりに照らされ、陽光のような輝きをまとっていた。彼女は今日という一日が無事に終えられることに胸を撫で下ろし、同時に違和感を覚える。一瞬だが月影が揺らいでいるように見えたのだ。彼女は目を凝らして、丸い光に視線を注ぎ続ける。司法に関わる仕事に従事する彼女にとって事象の違和感を検めることは息をするようなものだ。すぐに月影の異変の正体に気が付いた。
異変の正体、月に浮かんだ黒点はじわじわと大きく滲み、やがて肉眼でもその形の正体を見極められるようになっていく。
「アゼム様!」
黒点の正体は空から降ってきている人間だった。それも彼女やアーモロート、あるいはアーテリスにとって特別な人。月の中から自由落下してくるアゼムは気を失っているのか、魔法を使う素振りがない。街中で大規模な魔法を行使することは静謐を尊ぶアーモロートにおいて決して褒められたことではないが、彼女は迷わず大型の四足歩行型の創造生物を二匹創り出した。
「行け!」
彼女の指示を受けるや否や、創造生物の片割れは風のように駆け出していく。建物の合間を縫って飛び回った獣は、重力に従って落ちてくるアゼムを無事に受け止めることに成功した。もう一頭に跨った彼女が追いつく頃にはアゼムはマカレンサス広場の芝生に寝かされており、普段は何事にも動じない強さで職務にあたる職員の仮面が剥がれた彼女を大いに慌てさせる。
「アゼム様、アゼム様。起きてください」
耳のすぐ側で声をかけても特に反応はない。仮面やローブの上から分かる範囲に大きな怪我や魔法の類の影響はないようだ。まるでしんしんと降り積もる新雪が音を隠してしまった朝のように、ただ眠っているようにも見える。
「アゼム様……?」
恐るおそるもう一度その人の座を呼ぶと、無意識にでも声を聞こうと首を向けたアゼムの顔から赤い仮面が転げ落ちてしまった。普段晒されることのない素顔が初めて彼女の前に現れる。想定外の出来事だ。思わず息を呑んだ拍子に後退った彼女を創造生物のやわらかい身体が受け止める。心配そうな鼻先が真紅の髪を押し上げて、その何でもない普段通りが彼女に幾ばくかの落ち着きを与えた。
これは故意ではない。自らにそう言い聞かせ、彼女は司法に携わる者として公正に、そして厳格に状況を判じる。何にせよ、尊敬する人をこのまま野晒しにしておくわけにはいかない。カピトル議事堂に連れていけば、十四人委員会の誰かがその一角を担う人が空から降ってきた事情を知っている可能性があるだろう。ひとまず創造生物の背に乗せてなければ、と随分と草臥れたローブの背に手を回したところでいささか近くなっていた目蓋が震えた。
「……あ」
「…………君は、人民管理局の……? ということは、アーモロートに着いていたのか」
アゼムは背中に添えられた彼女の手に気付くと、少しだけ力を借りて体を起こす。ゆったりとした動きからは街中や噂に聞く溌剌さや有り余る熱は感じられず、じわりじわりと燻るような疲れが滲んでいた。
「助けてもらって、ありがとうございます……もしかして空から落ちてきたりした?」
「は、はい。一体何が……お役目で何か事件でもございましたか?」
「ごめんね、心配してくれてありがとう。でも、そういう訳ではないんだ。その、単純に疲れてしまって……」
気恥ずかしそうに頬を掻く仕草は叱られ慣れた悪戯っ子のようで、一目見ただけではアーテリス中を駆け巡る流星とは分からない。彼女は大事ではないことを知って、安堵しつつその人を目の前にした不思議な感覚を抱いていた。
「差し出がましいようですが、テレポでお戻りになられた方がよろしかったのでは?」
「その方が確実だものね。普段ならきっとそうしたけれど……」
「けれど?」
そこで言葉を区切ったアゼムは空を見上げる。未だ晒されたままの瞳と頬とに月影が落ち、白い輪郭を描いた。彼女は見てはいけないものを見てしまったようなバツの悪さを隠すように、アゼムと同じように空を見上げる。そこには変わらず美しい真円が輝いていた。
「今夜は月がきれいだったからね。つい見ていたくて」
「……ええ、確かに。美しい」
ふ、と彼女は自然にアゼムの横に立っている自身に気付いた。他の十四人委員会メンバーとは役割の在り方を異するその人が為せる技なのだろうか。いけない、と思いつつもつい空を見上げる横顔をフードの隙間から垣間見ると、真っ直ぐな眼差しは一心に月を愛でていた。
「まあ、でも。疲れている時に飛ぶことは控えよう」
とっぷりとした深く静かな時間はアゼムの名残惜しそうな声音で終わりを迎えた。肩をすくめる仕草をしてみせた普段通りのその人の様子に彼女は仮面の下で眼尻を下げる。
「君みたいなやさしい人に迷惑をかけては、またエメトセルクに叱られてしまうからね」
「そんな、私は何も」
彼女の謙遜を尊ぶように、しかしてにこやかに最大級の礼を見せたアゼムは落としたままだった仮面を手に取った。
「今日はありがとう。君たちも、ありがとう。重かったでしょう?」
黒いローブ、そしてその役割の証である仮面。星のために働く十四人委員会の一員として本来の姿を取り戻したその人は彼女に寄り添う創造生物たちにも目線を合わせて丁寧に労をねぎらう。毛並みを梳かれて心地良さそうに目を細める獣たちも、離れていく指先を名残惜しそうにしていた。
「またね、審理の君」
パチリ、ややぎこちなく指を鳴らしたその人はマカレンサス広場から姿を消す。残された彼女は鮮やかな魔法の術式の痕を、そして変わらず彼女を見下ろす月を見遣った。
彼女自身の名を呼ばれたわけではない。しかし、その瞬間に確かな熱が彼女の内側を焼いている。熱は衝動へ、焦がれるような想いへ転じ、やがて灰となった想いは一つの答えを指し示した。その答えはアーモロートから遠く離れた土地、白いローブの淑女へ届けられるだろう。