休暇の過ごし方 02

賢人グ・ラハ・ティアにとって床の冷たさと硬さは親しい友人のようなものだ。幼い頃にシャーレアンに渡った彼が自らの運命を見定めるための手段として勧められた賢人位の取得には、それなりに高度な論文の提出が求められた。元々自分で調べていたアラグ研究の成果を取りまとめ、一本の論文にしたためるまでの間、グ・ラハは何度も頬にタイルの模様をくっつけ、ある時は背中を痛めかけた。あの日々の感覚を久し振りに頬に感じて、彼は未だ夢うつつながらゆるやかに口元を緩ませる。
「おはよ、起きてるか?」

ぬ、と頭上に影が落ちる。さらりとした紺色の長髪をゆるく結わえた男が床に落ちたままのグ・ラハを覗き込んできた。
「……あれ? あんた、なんでオレの家に……?」
「ねぼすけさんめ……ほら、起きろ」

溜め息をついた男──リックはよいしょ、と掛け声をかけつつ、自身と比べるといささか小柄なグ・ラハの体を持ち上げてぶら下げてしまった。まるで子猫を抱き上げるような暴挙に流石のグ・ラハも尻尾がぼわっと膨らむ。文句の一つでもとグ・ラハが見遣ると、その人は悪戯が成功した時のにんまり顔を浮かべていて、眠気と一緒にいくつか思いついていた言葉も何処かへ消えていった。
「おはよう、リック」
「おはよう、グ・ラハ・ティア」

「というわけで、二人暮らしが今日から本格的に始まるわけだが……」

少し早く目が覚めたリックお手製の朝食を頬張りながら、グ・ラハは強い好奇心を示すようにピンと立ったままだった耳を少し萎れさせる。昨日は少しばかり飲みすぎた自覚があるのだろう。事実、アラガントームストーンに関する議論が白熱したあたりからの記憶がない。
「……うん、ちゃんとした時間に起きて、普段通りの暮らしをしよう」
「そういうこと」

バツの悪さを隠すようにグ・ラハはカリカリのトーストをすべて口に放り込む。

今回の休暇の目的は、長い間眠り続けていたグ・ラハの体と時空を超えて統合された記憶と魂とのバランスを整えることだ。もう一つ、毎日昼酒をしていては調子を整えるどころか腕が鈍ってしまう上、グ・ラハのもう一つの目的も果たすことが出来ない。たまになら良いけれど、と昨日のお気に入りの銘柄を思い浮かべながらリックはくつくつと笑っていた。
「さしあたって相談だが……グ・ラハ、家事は得意?」

どこからか紙とペンを取り出したリックは真っ白な紙の中心に縦線を引き、二人の名前を左右に書き分ける。それでピンときたグ・ラハは残っていたカフェオレを飲み干して、身を乗り出した。
「一応、第一世界ではライナもいたから一通りのことは出来る! ……掃除以外は」
「シャーレアンの賢人ってみんな掃除苦手だよなぁ」
「た、たまたまだ……多分」

リックはにまにましたまま、自身の名前の下に「掃除」と書き記す。
「俺も一通り出来るけれど……強いて言うなら料理が好きだけど、洗濯が下手かも」
「洗濯? 洗って干すだけだろう?」
「いろいろやってると、干すのを忘れるんだ」
「……あんた、意外と忘れっぽいからな」

その功績と武名を知らない人の方が少ないだろう英雄はペンで黒い角を掻いて、ルームメイトの名前の下に「洗濯」を書き入れる。そうやって時折思い出話を交えながら二人の得意がそれぞれ割り振られていく。
「よし、大体決まったかな」

平和な話し合いの結果、二人で暮らしている間、グ・ラハは洗濯と物資の管理、リックは料理と掃除をそれぞれ担当することに決まった。買い出しは二人で散歩がてら行くこととして、数日に一度はグランドカンパニーか冒険者ギルドが発行するリーヴで体を馴らす。食事は出来るだけ二人で一緒にとって、朝は手合わせだ。気心の知れた二人だからこそ、初めから約束していたように互いの夜は自身のための空白が設けられていた。
「うん、無理のないのんびりスケジュールだ!」
「それでも無理はしないで、ゆっくりやろうな」
「……ありがとう。あんたと長い時間を一緒に過ごせるなんて、これほど贅沢な時間はないんだ。だから、めいっぱい楽しんで過ごすよ」

ニッと笑って見せるグ・ラハにリックは嬉しいはずなのに喉の奥が詰まったように感じて、思わずぐりぐりと紅い髪を掻き回してみる。きゃあきゃあと文句を垂れながらはしゃぐ、他愛のない時間がずっとずっと続けばどうなるのだろう、と脳裏を過ったことには気付かない振りをして二人は早速分担した家事をこなすべく食卓を旅立った。

グ・ラハ青年がまず取り掛かったのは貯蔵庫の確認だ。彼がかつて街の代表者として在った時、世界情勢も相まって物資の状況把握は文字通り死活問題だった。いつ不測の事態が生じても対応出来るだけの備えを蓄えておくこと、たとえ戦線から遠い暮らしだとしても応用出来ることはあるはずだとグ・ラハは腕まくりして杖に明かりを灯し、貯蔵庫の中に足を進めていった。

ふと気づいた事実にグ・ラハは自身が物資の担当になって良かった、と胸を撫で下ろす。彼が少し身を屈めてなら歩いて入れるくらいの貯蔵庫の天井の近さは、グ・ラハよりも一回り以上大柄なアウラ・ゼラのリックにとっては窮屈で仕方ないことだろう。背の高い屈強な人にも憧れるが、今は少し小柄で得をしたとグ・ラハは少しにやつきながら黙々と物資の棚卸しを続けた。

アルフィノとアリゼーの計らいだろうか、保存食材は潤沢過ぎるくらい在庫されており、日用品も一通り揃えられていた。消耗品は買い出しに行くとしても、荷物はかなり軽く済みそうだ。グ・ラハはモードゥナの方角に一礼してから洗濯用洗剤とタライを手に貯蔵庫を後にした。

次は洗濯だ。家の中をぐるっと回って洗濯に回せそうなものは回収したが、リックに声をかけて洗うものがないか確認しなければ、とグ・ラハは洗濯物を積み上げたタライを抱えて掃除をしているだろうリックの元へ向かった。
「リックー、洗濯物あるか?」
「あー……ある、けど大物だから手伝うよ」

まだ慣れない家の中をぐるり歩き回って見つけたリックは台所で食器棚を覗き込んでいた。グ・ラハが背中から声をかけると、気も漫ろといった様子で食器から目線を外せないまま返事をする。
「あれ? 掃除は?」
「俺たちが入る前にきれいにしていてくれたらしくて、ほとんどやることがなかったんだ。洗濯、庭でやるだろう? 先行っててくれ」

グ・ラハは大人しく、器用に尻尾で返事して庭へ出ていった。今日は洗濯日和だ。ラノシアらしいカラッととした晴天と燦々と降り注ぐ陽光にグ・ラハは思わず欠伸を誘われて、くわりと大きな口を開く。良い洗濯日和だ。未だ喉に残る微睡みを噛み殺して、彼は洗濯物を入れたタライを芝生に置き、背から取り出した杖を持ってウォタガの詠唱をのんびりと口ずさむ。ゆるゆると結実する水泡はまるで踊るようにタライを満たし、洗濯物をとっぷりと包みこんでいく。
「ごめん、待たせた」

遅れてきたリックは両手にたっぷりとした布の山を抱えて出てきた。以前の記憶とはかけ離れていたが、グ・ラハはその装束を知っている。
「……これって……」
「白魔道士の装備。石の家で合流する前、ちょっとな」

魔道士の衣は恐らく自身のものではない血糊がべっとりついて、本来の白地よりも赤い面積が多いくらいになってしまっていた。確かにこれは大物だ。

英雄の戦場は前線ばかりではない、とグ・ラハは知っていた。戦斧の使い手であり、優れた癒やし手でもあるリックは人一倍最前線で暴れまわった後、後方では負傷者の治療にあたるような二面性──彼の場合は二面どころではないが──を持った人だ。戦場で息をしている時、英雄に無駄な時間は一瞬として存在しない。

だが、それは今は遠い場所の話。グ・ラハは一瞬逡巡しかけた言葉を取るに足らない日常のそれに塗り替える。
「さーて、ウォタガで一気にやるか」

熟練の冒険者ならではの早着替えでいつもより軽そうなパーラカ風の術衣とシンプルながら細工が美しい杖を手にしたリックは、目を閉じて何節か呪文を唱える。普段の繊細な術とは打って変わって遠慮のない豪快な水の奔流を器用に操り、彼は自身の装備ごとグ・ラハが満たしたタライを巻き込み竜巻のようにぐるぐると回しだした。
「久し振りに使ったけど、意外といけるもんだな」

にへら、と少し自慢げな表情のリックを見て、グ・ラハの気分が高まらないはずがなかった。自分の魔法が浅瀬での水遊びなら、英雄のそれは大波そのもの。久し振りに使った魔法でこの精度なら、普段使い慣れた術を日常で使うとどうなってしまうのだろう。その興味と好奇心は勿論グ・ラハ自身の魔法へも向けられていて。
「よし、オレも!」

グ・ラハは詠唱をウォタガからアクアヴェールへ切り替え、いつもより込める魔力を多く、流れの指向性に回転をつけるイメージで一気に出力した。杖から放たれた急流はリックの竜巻に逆巻くように合流し、激しく洗濯物の汚れを落としていく。自分でもここまで上手くいくなんて思っていなかったグ・ラハも興奮しきった眼差しをリックに向け、そして嬉しさを言葉にしようとしたその瞬間。カクリ、彼は膝から落ちていく。
「ラハ!」

リックは目の前で崩れる体を咄嗟に受け止める。さまざまな最悪の可能性が脳裏を過るが、今は。正面から受け止めた体をひっくり返して、もう一度その名前を呼びつつ頬を軽く叩く。ふれた肌は信じられないほど冷えきっていて、リックの顔も青白く染まる。水の魔法を使ったからといってここまでになることはない。なら、別の理由があるはずだ。

リックは考える。そう、考え始めた瞬間に頭の上から制御を失った水の塊が服とタライごと降ってきた。勿論、動揺の残るリックがグ・ラハを抱えたまま避けることも出来ない。二人仲良く頭の上から足の先までぐっしょり濡れる羽目になってしまった。
「……これか……」

水を被って冷静になったリックはすぐに答えに至った。グ・ラハの不調の原因、それは急に強い術を使ったことによるエーテル切れだ。試しにエーテルを分け与えてみると冷えた頬に赤みが戻り、リックもやっと胸を撫で下ろす。
「よかった……でも、起きたらお説教だな」

抱えられたまま呑気に寝息を立てるグ・ラハが楽な姿勢になるように位置を調整したリックは、芝生に落ちてしまった洗濯物の状態を確認する。二人の魔法が巻き起こした激流で酷い汚れだった白魔道士の装備も元の白地がきれいに見えるようになっていた。リックは早着替えをして今度は細剣を手に取る。もし途中で目覚めたグ・ラハが対抗心を燃やさないように、今回はゆっくりとした風を作って洗濯物を物干し竿へと導き、風邪をひく前に自分たちを乾かすために。

グ・ラハが目を覚ますと、抜けるような青空を背景にすっかり白くなった魔道士の衣と他の洗濯物たちが風に乗って気持ちよさそうに泳いでいた。それを見てグ・ラハは一気に自身の状況を把握する。やってしまった、と。

ごろり、寝返りを打って隣りを見遣ると彼の一等憧れの人がのんびり本を読んでいる。動いたことで目覚めに気付いたリックは本を置いてグ・ラハの両頬に手を添え、やや強く顔を挟む。
「無理しすぎ。ゆっくりって言っただろう」

真正面から逃げられないようにして話す時はリックという人が本気の証拠だとグ・ラハはこれまでの経験で嫌と言うほど知っていた。
「……ごめん」
「ごめんは聞かない」
「……ありがとう、洗濯手伝ってくれて」
「いいえー」

こうなると知っていてなお無茶をするのだからリックも、周りの人々も心配してもしきれないのだ。きっとまたやらかすのだろうな、と半ば諦めながらリックはグ・ラハの頬から手を離して自分も芝生に寝転んだ。
「今日は風が気持ち良いな」
「ああ、のどかだ」

ぐっと伸びをして、ふわふわと欠伸をするリックに誘われてグ・ラハも大きな欠伸を漏らした。今日はいろんなものに眠気を誘われるな、とまだ微睡む思考がのんびりと考えている。
「もうちょっと昼寝するか?」
「……いいのか?」
「悪いことがあるか? 今のグ・ラハの仕事はのんびり体を馴らすことだ」
「……じゃあ、ちょっとだけ」

グ・ラハの回答に満足げな笑みを向けるリックは紅い髪と耳を一緒にかき混ぜる。
「焦らなくても休暇は始まったばっかりだ。ゆっくりしよう」

肯定の代わりに数度まばたきをしたグ・ラハは今度は欠伸を噛み殺して、そして心地良い午睡に身を預けていった。