飯屋の矜持
魔法舎の庭にはさまざまな種類の花が咲く。
今の時期に盛りを迎える赤い花が庭だけに留まらず、廊下や食堂、各々の個室にまで風の助けを借りてやわらかく香り、芽吹きの季節を報せていた。こんなに佳い日和に窓際の席で良い声で語られる授業なんて受けていたら、欠伸の一つも漏れてしまうのも仕方がないことだろう。
一応、年長者の嗜みとして先生がこちらに背を向けた時を見計らって、今日何度目かの大欠伸を逃しつつ外を見遣れば、花をつけた低木の足元に甘い香りに誘われる蝶のような人影がふらふらと座り込むところだった。
座ってしばらくは香りを堪能していた賢者さんはやがて落ちてしまった一輪を拾い上げてまじまじと花びらを見つめて、見る角度を変える度に手にしていた白紙の本に何やら書き込み始めた。俺たちに向けるそれと同じくらい、花を観察する真剣な眼差しがひどく微笑ましい。
鼻にくっつけて匂いを嗅いでいた賢者さんは何かを探すように周りを見回したかと思えば、意を決したように手に持っていた花をぱくりと口に含んでしまった。あまりにも予想外の行動に俺は思わず込み上げた笑いに噎せてしまう。そう、授業中ということも忘れて。
「あだっ」
「痛っ」
大きな溜め息と一緒にポコッと頭に衝撃が降ってくる。思いの外、じっと外を見すぎていたのがファウストにばれてしまったようだ。
「……今日は揃って集中力がないようだな」
間抜けな音の割に意外と痛かったのは強化魔法でも使っていたのか。ヒースクリフを挟んで向こうに座っていたシノも頭を押さえて痛がっているから気のせいではないのかもしれない。
「あー……ごめん、先生。つまんねぇ訳じゃないんだけどさ」
「ほら、シノもちゃんと謝って」
「俺はつまらない。実技を増やせ、ファウスト」
シノはともかく謝った俺にまでじろりと睨めつけたファウストは、また大きな溜め息を寄越してきた。こうなった先生はなかなか手強い。
「何度も言うが、基礎がない内は駄目だ。今日はもう終わりにするから、明日の任務に向けて各自準備をしておくように」
授業が早く終わることに喜ぶシノににっこりと笑いかけながら得物、もとい丸めた資料を元に戻したファウストは短く呪文を唱える。すると机の上に置いていた筆記用具が綺麗さっぱり片付けられ、代わりに紙の山がうずたかく積み上げられていた。
「さて、これは次回までの課題だ。今日の授業を聞いていればすぐに出来るものばかりだから、簡単だろう。じゃあ解散」
あれはそこそこ怒っていたな、とファウストの好物と台所の在庫を思い浮かべつつ紙の山を抱えなおして部屋に戻る道を辿るつもりだった。だが、無意識に足が庭へと向かっていると気付いた時にはもうその小さな背中を視線が捉えていて、らしくない自分に少し驚く。
丸まった背中を見る限り、賢者さんは膝の上の本へまだ観察記録をつけているようで、近くで様子を伺っている俺にはしばらく気付きそうもない。いつもの自分なら特に声なんてかけずにしばらく眺めてから立ち去るか、あっちが気付いたら手を振ってやるくらいのものだろう。
だけど、今日の俺は少し様子がおかしいみたいだった。そう自覚した時にはもう俺は綺麗に整えられた芝生を渡って、瑞々しい若さが香る肩に手を乗せていた。
「わっ!びっくりした!」
本当に集中していて気付いていなかった賢者さんの肩がびくりと跳ねて、すぐに満月みたいに丸くした賢者さんの瞳が俺を捉える。声音通りの混乱と色がないまぜになった複雑な視線は見たかったものではなかったけれど、今はそれでも良いかと思えた。
「驚かせて悪ぃな」
「ネロでしたか、授業お疲れ様です。ふふ、宿題いっぱい出たんですね」
「そうなんだよ……ちょっと先生を怒らせちまってさ」
「え、ファウストを?」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと謝っとくよ」
立ったままだった俺を心配げに見上げている賢者さんの隣りに腰と、ある意味自業自得が形になった課題の山を雪崩れないようにそうっと下ろす。
「えっと、何か用事でしたか?」
「あー……いや、廊下から座り込んでたのが見えたからさ。何してんの?」
「ミチルとリケと一緒に魔法舎に咲いている花のスケッチをしようって約束したので、その練習です」
「練習って……あんた、本当に真面目だな」
にへら、と恥ずかしげにはにかむ賢者さんは俺が見やすいように膝から本を持ち上げてくれた。
少し体を傾けて手元を覗き込むと、すぐ側で咲き誇っている花のスケッチが真っ白だった紙面いっぱい書き込まれていた。試行錯誤を重ねたのだろう、何度も書いて消してを繰り返した後が見られる。
「すごいな、十分上手だと思うけど」
「ありがとうございます!折角だからこの機会に魔法舎の花をいろいろ見ておきたくて」
「そっか」
今日の観察の成果を嬉しそうに話しているこの人は何に対しても本当に一生懸命で、眩しい。
そんな目映さに目を細めながら話を聞いている間も、いや、授業中にその瞬間を見た時からずっと、赤い花を口に含んだ賢者さんの姿が頭から離れてくれない。
このもやもやと胸につっかえる感覚には覚えがあった。きっといつも通りの俺ならそんなものは無視して、当たり障りない会話を交わして終わっただろう。いつもの俺ならそう出来た。
「この花、そのまま食うと口がピリピリするんだけど大丈夫か?」
「ええ、今のところ……えっ!?どうして知ってるんですか?!」
「たまたま見えたんだよ、たまたま」
まさかその余所見が原因で隣りに異様な存在感を放つ課題が生まれたとは言えず、微妙な笑いで誤魔化しながら芝生に落ちていた数多の花から一輪を拾い上げる。これだけあれば意外と甘党が多い魔法舎でも、全員が楽しめる分くらいのジャムが作れるだろう。
「子どもの頃、花の蜜をおやつにしてたなぁって思い出して、つい」
「……旨かった?」
「はい、甘かったです!」
控えめな華やかさの笑顔も今はもやもやを膨らませるだけで、なんだか真っ直ぐ見ることが出来ず、出ていきそうになる気持ちを打ち消すように口の中で呪文を唱える。拾い上げた花を握り、広げた手の中にはいつもより少しだけ歪な薄紅色のシュガーが一粒出来ていた。
「賢者さん、口開けて」
「はい?むぐ」
鳥の雛みたいに無防備に見せられた口の中にシュガーを放り込むと、一瞬驚いた表情を見せた賢者さんはすぐに嬉しそうな笑顔を咲かせる。もう胸につっかえたりはせず、まっすぐ見ることが出来る喜色にこっそり胸を撫で下ろした。
「ネロのシュガー、美味しいです」
「そりゃよかった」
どうしてもやついていたのかなんて、とっくに分かっていた。だけど、こんな自分勝手な理由を悟られるわけにはいかなくて、何か尤もらしい理由はないかと照れる振りをして視線を巡らせると、やっぱり悩みの種になった花しかない。
「さっきの花な、ミスラがよく食べては口の中がピリピリするって言ってるやつなんだよ」
「えっ」
「だから、痛くならねぇようにおまじないな」
「ありがとうございます、ネロ」
真面目に深々とお辞儀をして礼を伝えてくれる賢者さんの髪をちびっこたちにするように掻き回してやる。気付かれていないならそれで良い。
「そのまま食べると駄目だけど、ジャムにすると美味いんだ。明日の朝飯に出してみるか」
「わぁ、花のジャム!美味しそう!ネロ、お手伝いしてもいいですか?」
「ああ、むしろ頼もうと思ってたところだ」
花を入れる布を探してこようと立ち上がりかけた俺を賢者さんの手が引っ張って留める。そして、そのまま得意げにいつも着ている上着を指差して、おもむろにそれを脱ぎだした。
「ネロ、上着いっぱいになるまで花を集めたら足りますか?」
「あっはは!ああ、十分だよ。あんたさ、たまに豪快なところあるよな」
「そうですか?へへ……」
賢者さんがバサリと広げた上着に二人で両手いっぱい花をよそっては流し入れていくと、すぐに十分な量の花を収穫することが出来た。こぼれないよう慎重に上着を丸く包んだ賢者さんと、大量の課題を落とさないように両手で抱える俺とでゆっくりと台所への道を歩いていく。二人でやればきっとジャム作りもすぐに終わるだろう。もしかしたら、音や匂いに誘われてちびっこたちや甘党たちも来るかもしれない。かんたんに想像出来てしまった騒々しい台所の風景に、自分も変わったものだと頬が緩んだ。
一際強く風が吹く。ざあざあと揺れた木々から、ふわりとやさしい花が新しく香った。