ご馳走攻め

「賢者さん」

階上からサラリとした声が降りてくる。見上げれば階段の手すりに頬杖をついてこちらを見下ろす金色の瞳と目が合った。

いつも付けているエプロンが彼の腕に引っかかっているところを見るに、昼ご飯の片付けを終えてキッチンから出てきたところだろう。
「ネロ、お疲れ様です」
「お疲れさん。お出かけかい?」
「はい、ちょっと市場まで」
「俺も買い出しに行くところ。丁度良いから乗っていきな」
「え、でも……悪いですし、歩きますよ」
「いいから、な?」

ネロが階段を降りてこちらに近づいてくる途中、手品みたいな鮮やかさでエプロンが箒にすり替わっていて、思わず拍手してしまった。そんな良いもんじゃねーよ、と照れ笑う彼に背を押されて二人連れ立って外へ出る。

魔法舎で暮らすようになって魔法が日常に溶け込んでも、目の前で繰り広げられる一期一会の奇跡に感じる驚きや憧れは薄れない。呪文一つで現れるシュガーや傷を癒やすあたたかい光、突如落ちてくる雷や炎の渦。勿論、魔法の箒で空を飛ぶことも未だに胸が高鳴って、目の前いっぱいに広がる背中の主に鼓動が伝わりませんように、いつだって願っている。
「賢者さんさ、今夜は何食いてぇとかある?」
「うーん……魚はどうでしょう」
「いいな。今朝、群青レモンが採れたってミチルたちが騒いでたから、ムニエルにしよう」

落ちないように掴まっていて、と握らされたネロのシャツ越しにやわらかく響く声の振動を感じる。ネロが他愛のない会話を振ってくれる時は相手を思ってのことだ。緊張、非日常、恐怖。いろんなものに手足を引かれる自分を日常に座り直させてくれる声はいつだってやさしい。どうして市場に一人で行こうとしていたのか、器用にその線だけを避けるゆるやかな航行はやがて市場に着く頃、胸につっかえていた何かを溶かしてしまっていた。
「さて……折角だからムニエルにする魚も選んでくれよ」
「いいんですか? やった!」

出した時と同じように一瞬で箒を仕舞ったネロの提案に喜んでその隣りに並んで歩き出す。いつもの買い出しのルートはまず青果物から見て回るが、今日は何故かそちらとは逆の雑貨類が並ぶ方へ足を向けていた。
「ネロ、食品はあっちですよ?」
「んー? そうだな、でも今日はこっち」

もしかしたらネロは最初から、きっと朝ご飯の時に食堂で顔を合わせたその時から気付いていたのかもしれない。本当は買いたいものなんてないのに市場に行きたがっていたことも、その理由も。まるで雲間から覗く太陽のようなささやかな甘やかし。

食材を買いに来ただけなら用もない、むしろ普段のネロなら厭うだろう人ごみの中を二人で歩き回って、出店の品揃えを覗いて目当てになりそうなのものを探したり、路地で寝ている猫を見つけてはしゃいでみたり。

時間をかけて市場をぐるりと歩き回った二人の腕の中には、魔法舎のみんなが好きな食材がぎっしり詰まっていた。ずっと入りっぱなしだった人ごみから抜けると、早速ネロが箒を取り出す。市場から少し外れたここなら箒で飛び立っても誰の迷惑にもならないだろう。
「ありがとうございます、ネロ。結局、買い物にも付き合ってもらって」
「これくらい易いもんさ」

美味しそうな匂いで溢れている紙袋の隙間には雑貨の露天の小包が忍んでいた。ネロと一緒に市場を歩き回って選んだ花の香りのする石鹸だ。かんたんな魔法がかけられていて、普通の石鹸よりも長く使える上に季節によって花の香りが変わるらしい。まるで四季のようだ、と懐かしさを感じた時には手に取ってしまっていたのだ。

故郷を感じるものは寂しいから避けたい気持ちもあるけれど、でもやっぱり嬉しさも大きくて。今夜お風呂で使うのが楽しみで、何度も小包を見遣っては頬がゆるみそうになる。 
「なあ、賢者さん。言っておきてぇことがあるんだけど」
「な、んでしょう……?」

箒に跨って飛び立つ時を待っていたら、妙に真剣な眼差しを向けてきた。何か気に障ることでもしただろうか。言われるより先にシャツを握っていたのが嫌だったかな、それとも何か他に気に障ることでもしてしまっていたのだろうか。じっと真っ直ぐこちらを見たまま黙っているネロの言葉を固唾を飲んで待つ。
「箒で飛ぶ時、浮く瞬間に眉間がギュってなんの知ってた?」
「えっ!うわっ」

ニヤリ、と笑ったネロにぐっと肩を支えられた瞬間、ふわっと前髪が浮いて一気に地面が遠く、代わりに雲が少しだけ近くなっていた。
「はは、またギュってなってる」
「ネ、ネロ……! 飛ぶ時は言ってください!」
「悪い悪い」

丁度良い気安さで肩をぽんぽん叩かれてやっと彼のシャツを握りこんでしまっていた手から少しだけ力をゆるめられた。念のため確認したら、皺にはなっていないようでまだバクバクと跳ね回る胸を撫で下ろす。
「難しい顔なんて若い内からするもんじゃないよ」

さっきまでの悪戯っ子は鳴りを潜め、代わりに独り言のような静けさが弱い向かい風に運ばれて箒の後ろに乗っている自分に届く。前を向いているネロの表情は見えない。
「お、アーサーだ」

丁度前方、青いマントをはためかせる少年が銀髪を夕陽色に染めて飛んでいた。おーい、とネロに声をかけられて気付いたアーサーが大きく両手を振ってこちらに飛んでくる。
「おいおい、ちゃんと箒は持ってろ」

魔法舎の小さい魔法使いたちがおいたをした時と同じようにネロにたしなめられたアーサーは気恥ずかしげに、しかし少しだけ嬉しそうにはにかんでいた。それでも手を振るのは諦められなかったらしく、片手で手を振ってもう片手で箒の柄を握って、残りの距離をゆっくり飛んで近付いてくる。
「中央の王子さんはやんちゃで困るな?」

やっと見せてくれた横顔には静けさよりも、子どもを見守るあたたかさが滲んでいた。風に混じって聞こえてきた声は都合の良い風鳴りだったのだろうか。
「賢者様、ネロ!」
「おかえりなさい、アーサー」
「今夜はムニエルだ、一緒に食べられるか?」
「勿論! ムニエルは好物だから楽しみだ!」

全身で素直な気持ちを表すように、アーサーの駆る箒が縦横無尽にアクロバット飛行を披露する。きっとオズが見ていたら雷が落ちるだろう姿にネロと二人で笑い声を響かせた。
「賢者様もご一緒にいかがでしょうか! キーンとひとっ飛びすると気持ち良いですよ」

一通り好き勝手に飛び回ったアーサーが頬を上気させて手を差し伸べてくる。きっといつもの自分なら遠慮していただろう。
「アーサー、あんまり賢者さんを困らせちゃ、」
「……キーンってしても良いですか?」

ぎょっとしたネロが振り返るのを横目に、悪いと思いつつも抱えていた自分の分の紙袋を押し付けてアーサーの手に導かれるまま彼の箒に飛び移った。アーサーもネロも言っていた。魔法使いはやんちゃだって悪いことだってする。なら、彼らと一緒にいる賢者の自分だって少しくらい悪いことをしてもいいかな。
「掴まっていてください、賢者様!」
「はい!」

今度は眉間に皺を寄せないように気をつけて、代わりにアーサーの箒をギュッと握った。そして、ぐっとアーサーの肩に力がこもった次の瞬間、一番強い浮遊感がお腹をかき回していく。楽しい。誰も来ない空の上をいいことに、笑い声はどんどん大きくなっていった。楽しい。

ぐるぐる回る視界はまるでこの世界に来てからの日常みたいだ。たとえ日常がひっくり返ってしまったとしても新しい日はやって来る。でもそれは当たり前のことではなくて、周りにいる人たちや行った先で縁を結んだ人たちのやさしさに護られているお陰だ。異郷の地でも、賢者という大役を背負っていたとしても時には逃げ出したり、やんちゃなアクロバット飛行に興じたり、自分らしくいることを許して大切に想ってくれる魔法使いのみんながいるから。

だから、自分に出来ることを果たしたいと思える。
「ほら、そろそろ帰るぞ。みんな待ちくたびれちまう」
「はーい」

きゃあきゃあと暴れまわる二人を見守っていたネロの一声でアクロバット飛行は終幕となってしまった。楽しんでいる内に夕陽はすっかり落ちきっていて、アーサーの銀髪が夜色に染まっている。三人で少しだけ速度を上げて帰路に就き始めたけれど、興奮のせいなのかしばらく額の汗が引いていかなかった。
「賢者様、またこっそりキーンと遊びましょうね」
「はい、勿論」

アーサーの箒に乗ったままの至近距離でこそこそと秘密の約束をしていると、じんわりとした斜陽のようなネロの視線がほのかに頬に当たる。今更気づきましたという体で小さく手を振ると、呆れの色とやわらかさを含んでネロは笑ってくれた。
「楽しかった?」
「はい! ネロとの買い出しも、アーサーとのアクロバット飛行も!」
「そりゃよかった」

スイスイと空を飛ぶ二本の箒は今朝誰かが暴れてつけた地面の傷の上、まだ無事な芝生と石畳の歩道に影を落として、玄関に足を下ろしてくれた。隣りにいたネロとアーサーがしなやかな動作で何人もが同時に潜れるほど広い両開きの扉を押し開けて、そして一歩後ろにいたこちらを振り返る。
「おかえり、賢者さん」
「ただいま帰りました」